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平成18年8月17日(木)昨日:日本漁船が露警備艇に銃撃拿捕、乗員1名死亡。 8月17日、蕃山忌(江戸時代の陽明学者、熊沢蕃山の命日) ○ 熊沢蕃山 (1619<元和5年>〜1691<元禄4年>) 京都稲荷に生れる。名は伯継(しげつぐ)、、幼名は左七郎、字は了介、通称は次郎八・助右衛門。野尻藤兵衛一利の長男、母は熊沢亀女。八歳のとき外祖父熊沢守久の養子となる。 1634年(寛永11)、岡山藩主池田光政に児小姓役として出仕。1639年(寛永16)池田家を致仕(官職を退くこと)、近江国桐原の祖父の実家へ移居。1642年(寛永19)、中江藤樹に陽明学を学ぶ。1645年(正保2)、再び光政に仕え、1647年(正保4)側役、知行三百石。 1649年(慶安2)、光政に随行して江戸参府。1650年(慶安3)、鉄砲組番頭、知行三千石。1651年(慶安4)、庶民教育の場となる「花園会」の会約を起草、これが蕃山の致仕後の1670年(寛文10)日本初の庶民学校として開かれた「閑谷学校」の前身となった。1654年(承応3)、備前一帯の大洪水ついで凶作大飢饉の際、光政を輔けて飢民の救済に尽力。また、津田永忠とともに光政の補佐役として岡山藩初期の藩政確立に取り組む。零細農民の救済、治山治水等の土木事業により農業政策を充実させた。しかし、大胆な藩政の改革は守旧派の家老らとの対立をもたらした。また、幕府が官学とする朱子学と対立する陽明学者である蕃山は、保科正之・林羅山らの批判を受けた。1657年(明暦3)に致仕。 このため、岡山城下を離れ和気郡蕃山村(しげやまそん、現・岡山県備前市蕃山)に隠棲を余儀なくされた。なお彼の号「蕃山」の名はこの地名に由来する。(岡山城下の屋敷があった場所は、現在、岡山市蕃山町となっている)さらに、幕府と藩の反対派の圧力耐えがたく、遂に岡山藩を去る。 京都に移住して塾を開く。1661年、京都所司代・牧野親成により京都から追放され、吉野山さらに山城国鹿背山(現・京都府相楽郡木津町)に移る。1669年(寛文9)、幕命により明石城主・松平信之にお預けとなる。1679年(延宝7)、信之の大和郡山への転封に従い、矢田山に移住する。 1683年(天和3)、大老堀田正俊の招聘により出府するも、出仕要請を辞退す。1686年(貞享3)、幕命により信之の嫡子の下総国古河藩主・松平忠之へお預けとなり、城内に禁錮される。浪々の身で、執筆活動と共に幕府の政策、特に参勤交代や兵農分離を批判し、また岡山藩の批判をも行った蕃山が余程憎かったのだろうか。69歳と高齢にも拘わらず、古河城内の竜崎頼政廓に蟄居謹慎させる。1691年(元禄4)、反骨の儒者は病を得て古河城裡に、その生涯を閉じた。享年74。以って、瞑すべし。 著書に『集義和書』『集義外書』『大学或問(わくもん)』『易緊辞伝』等あり。 蕃山は理論よりも当時の政治社会情勢に関する経験的観察に於て鋭いものあり。少なくも封建社会の矛盾の所在を洞察し、古代農兵制を理想とした。荻生徂徠及び水戸学の先駆。当面の対策としての二重貨幣制の提唱等、具体的救済策をも考究している。 「切支丹の御法度以来、信もなき仏法、盛大になり行き、天下おしなべて檀那寺を持ちぬれば、坊主共、戒律のたしなみもいらず、学問もいらず、心易く世を貪り、肉食、女犯、其の自由なる事、俗人に越える」 (『宇佐問答』熊沢蕃山) ※ 切支丹弾圧の手段として、幕府は宗門人別帳を作成する。このため誰彼かまわず、何れかの寺院に所属しなければ、切支丹と看做されてしまうため競って檀徒になった。これにより寺院経営は安定し、寺院は長らく幕藩体制と共に封建制度を維持してゆく。宗門人別帳は、同時に戸籍簿としての役割も果たし、これに洩れた者は無宿人と呼ばれ、厄介者扱いされた。 幕府からは疎まれた蕃山も、幕末になって再び脚光を浴びるところとなり、藤田東湖、吉田松陰などが傾倒し、倒幕の原動力となった。また、勝海舟は蕃山を評して「儒服を着た英雄」と述べている。1910年(明治43)、江戸時代の学問を興隆させた功績により正四位が贈呈された。
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