今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年8月18日(金)昨日:河合隼雄文化庁長官(78)が意識不明、脳梗塞で
 緊急入院。肺炎併発、意識不明の重体。臨床心理学第一人者。寂聴尼の知己。


 8月18日、平戸ジャンガラ念仏

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開催期間:2006.08.14(月)〜08.18(金)

 五穀豊穣を願った農民の踊り。菅笠に造花を飾り、ふちに幕を垂れ、腰の小太鼓を両撥で打つ。「ジャン」という鉦の音と「グワラ」という小太鼓の音が語源とも。日本武尊が平戸で善政をしかれたのを喜び「穂長う穂実出え」と繰り返し歌ったのが始まりとされている(?)。

 会場 長崎県平戸島、平戸市内9地区(亀岡神社など)
 問合せ先 0950-22-4111 (平戸市観光商工課)

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 ○ 平戸のジャンガラ(重要無形民俗文化財)

 平戸藩に伝わる念仏踊り。志々伎神社の神田領民が豊年祈願の踊りとして神社仏閣に奉納したことに始まる。歴代藩主の保護を受け古式のまま現在に伝わる。松浦静山公の「甲子夜話」に「じゃんぐわら考」という一節があり、「じゃん」は鉦の音「ぐわら」は小鼓のふちを打つ音と記述してある。毎年盆に踊り手が短い帷子を着て、菅笠に紙花を飾り、円陣を作って鉦鼓に合わせて踊る。(「甲子夜話」かっしやわ)

 現在、市内では平戸・中野・宝亀・紐差・根獅子・中津良・津吉・大志々伎・野子の9地区に伝承されている。8月18日早朝、平戸城大手門に集合。最初、亀岡神社に奉納して城下の神社仏閣諸官庁で踊り、日没まで100ヵ所ほども回る。

 「平戸自安和楽」と染め抜かれた旗幟を先頭に、着物の絵柄を継ぎ合せた幟持ちが、9人、笛3人、鉦叩き2人、踊り手が10人と続く。一行は家々の軒先に至ると笛の合図により、鉦叩きもその調子に合わせながら囃子を流す。踊り手は円陣を組み、前に抱えた太鼓を叩きながら踊る。場所によっては、大きな輪を描いて踊る時と、4人で対になり踊る場合とがある。(「平戸自安和楽」→平戸ジャンガラ)

 姿は、短い帷子(かたびら)を着て、頭には菅笠(すげがさ)に紙花を飾り、踊り手だけは顔を隠す五色の前垂れがある。一行は交替要員を含めて総勢で40名ほどになる。念仏踊りの一つであるが、お盆の先祖供養としての意義より、それを迎える人々は芸能としての見方が強くなっている。

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 ○ ジャンガラ → ジャガタラ 考

1582年(天正10)、天正遣欧使節。
九州のキリシタン大名・大村純忠、大友義鎮(よししげ)、有馬晴信が、宣教師・バリニャーノの勧めによって、ローマ教皇グレゴリウス13世およびスペイン国王フェリペ2世のもとに派遣した少年使節。正使・伊東マンショ・千々石(ちぢわ)ミゲル、副使・原マルチノ、中浦ジュリアン。ゴア、リスボン、マドリードを経て1585年、ローマに入り1590年に長崎に帰国。

1587年(天正15)、時に、大村純忠(日本初のキリシタン大名)が長崎をイエズス会へ寄進という風聞あり。秀吉(博多に陣を進めていた)は激怒し、長崎を没収し公領とす。伴天連追放令(20日以内に国外追放)、出島築造命令。

1636年(寛永13)、ポルトガル人妻子など関係者30数名をポルトガル領マカオ(広東省)に追放。次いで1639年にはオランダ、イギリス人の姻戚に関わる婦人、混血児を探索し280余名を見つけ出し、オランダ船に乗せ、平戸からバタビア(現ジャカルタ)に追放。

 ☆ (船出の時、平戸の家族知人たちは三味線太鼓などで賑々しい中にも、涙で見送ったとの記録がある。1660年代(寛文年間)に至り、音信が許された。心ならずも日本を去らねばならなかった混血児たちは、切々たる望郷の想いを手紙に託した。故郷である長崎平戸には、今に4通の文が遺る。俗にジャガタラ文と呼ぶ。

 1641年(寛永18)、平戸オランダ商館を閉鎖。長崎出島に移転を命じられる。


 恋しきは去られしものも去る者も ともに想いをつなぎとめなむ

 信長の治世下、キリシタンは仏教教団牽制の道具立てとして、大いに機能したが、豊臣後期・徳川幕府の時代には、キリシタンもかつての一向宗の如き目障りな存在になっていた。それらを背景に1639年、外国人との姻戚に関わる婦人、混血児を国外に追放したもの。

 追放されたからと言って、異国に流された身内への想いは募るばかり。されども、禁制の切支丹なれば、表立っての振る舞いは慎まねばならず、思いをめぐらす内に、マリア像を観音と詐称して信仰する者もあれば、ジャガタラ(ジャカルタ)への想いを託すに、ジャンガラ+念仏ならば、よもや切支丹とも思われまいと、分別したか??

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       ジャガタラ娘像 (平戸)

 ○ ジャガタラ娘

 平戸・長崎の外国人に関係した婦女32名がこの平戸からジャガタラに追放された。ジャガタラ娘とは、貿易時代に生まれた日本人とオランダ人などの間に生まれた混血児で、幕府の命により国外追放になった子供たち。望郷の思いをつづったジャガタラ文は人々の心をうつ。

 ジャガタラお春(長崎県)

 長崎で大きな貿易商をいとなむ理右衛門の家に、お春という娘がいました。お春はまだ13歳と幼かったのですが、肌の色は透けるように白く、鼻がすっきりと高く大きな瞳は湖のように青く澄み、それはそれは美しい娘でした。お春の母親はイタリア人のニコラスと結婚し、お春を産みましたが、産後の肥立ちが悪くお春を生むとすぐにこの世を去ってしまいました。父親のニコラスも妻を亡くした悲しみでお春を祖父にあたる理右衛門に託し、オランダに行ってしまったので、お春は理右衛門の子供として育てられました。

 その頃キリスト教を禁止した徳川幕府は、オランダを除いて外国との貿易をやめ、西洋人はすべて国外に追いだしていました。さらに、西洋人を親に持つ混血児もまた、日本にいてはいけないという、おふれまで出しました。そのおふれで、長崎じゅうの混血児はつぎつぎに奉行所に集められました。理右衛門は、お春を我が子として隠し通していましたが、気が気ではありません。

「お春や、悪い病気がはやっとるけんお前は明日から外へ出てはいかん。よかね。」理右衛門は、かわいそうにと思いながらもお春にそう諭しました。

 お春は家の中に閉じこもって過ごしていました。でも、まだ13才の娘です。友達の遊ぶ声が聞こえてくると、もうたまらなくなって店先に出てしまいました。運の悪いことに長崎奉行の役人が通りかかり、目にとまってしまったのです。日本人離れしたお春の美しさは、もう隠しきれません。役人に捕らえられたかわいそうなお春は同じ身の上の人たちと一緒に、ジャガタラ(今のインドネシアの首都ジャカルタ)に送られることになりました。お春は仲良しのおたつにだけは、このことを話しました。

 「そぎゃんばかなこつはなか!」
 おたつはそう叫んでお春の手をにぎり二人は泣きつづけました。

 お春たちが日本を追放されるその日、出島のそばにある船着場には、身寄りの者達が集まっていました。奉行所からのお達しで、親兄弟しか見送りは許されませんでしたが、おたつだけは、家の人が止めるのをふりきって見送りに来ました。

 「お春ちゃん、わたしは幾らお上のおふれがあっても、きっと手紙ばだすけんね。」「うん。うちもきっと書くけん。」お春を乗せた船は日本を去っていきました。

 それから一年が過ぎたある日、長崎の港にジャガタラにむかうオランダ船が停泊していると聞き、おたつは、お春あての手紙を船長さんにたのみました。お上に知れると重い罪になることでしたが、おたつはお春の事が気がかりでならなかったのです。それからまた一年が経った頃、そのオランダ船が長崎の港に戻ってきました。

 「テガミ、オハルサンニ、ワタシマシタ。コレ、ヘンジデス。」

 オランダ人の船長は、そっと色あざやかな布を渡してくれました。おたつはその布(袱紗)を広げてみると、お春の文字が書かれていました。

 「日本恋しや、日本恋しや。もう二度と帰れぬ故郷思えば、なみだにむせび…」手紙を読むうち、おたつは悲しくて声をあげて泣きました。 隠れて手紙を書き送ったのは、お春だけではありませんでした。このような手紙を「ジャガタラ文」といって、いまも平戸の旧家や資料館に残っています。

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     じゃがたらお春の碑 (長崎)


 かなり裕福だった“ジャガタラお春”

 1639年、幕府は、混血児287人をバタビア(ジャガタラ)へ 追放した。その時、お春15歳、母37歳、姉18歳であった。バタビアに到着して6年後、お春は、平戸生まれの混血シモン・シモンセン( オランダ人・東インド会社の事務員補 )と結婚する。

 夫シモンセンは、税関長に昇進、また晩年バタビア教会の長老となる。お春は四男三女をもうけて裕福で名誉ある上流家庭の婦人となった。しかし晩年は娘と孫の3人きりの寂しい生活だったとか。

 1952年、聖福寺に「お春をしのぶ記念碑」が建立。
 『 長崎の鶯は鳴くいまもなお じゃがたら文のお春あわれと( 吉井勇 )』

 ヒット曲「長崎物語」:『赤い花なら蔓珠紗華 阿蘭陀屋敷に雨が降る
 濡れて泣いてるジャガタラお春〜』


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      ジャガタラ文(袱紗に書かれたもの)

 日本こいしや 〜〜
 かりそめにたちいで
 又とかへらぬ ふるさとと
 思へば心も
 こころならず
 なみだに むせび
 めもくれ ゆめうつゝとも
 さらに わきまへず候へども
 あまりのことに
 ちゃづつみ一つ
 しんじまいらせ候
 あら にほんこいしや 〜〜
 こしょろ
 うば様
 参る

 (このコショロは誰かわからないようであるが、木田家所蔵のものが資料館で
 見られる。六寸四方の小袱紗の裏に小布(ぎれ)をはぎ合わせて書いてある。

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