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平成18年8月21日(月)祝!原巨人、対中日11連敗で喰い止めた(悔い止めた) 1876年8月21日、飛騨と美濃とが合併、爾来130年。 1876(明治9)年8月21日。筑摩県(現・長野県)の一部になっていた飛騨三郡(吉城、大野、益田郡)と、従来の岐阜県だった美濃が合併、ほぼ現在の「岐阜県」が誕生。 筑摩県:現在の長野県と岐阜県に跨がる部分を領した県。範囲は、信濃国の中信地方(東筑摩郡、南安曇郡、木曽郡、諏訪郡)と伊那地方と北安曇郡、並びに飛騨国です。県庁は東筑摩郡の松本に置かれた。 1871年12月31日(明治4年旧暦11月20日)、幾つかの県の合併により誕生したのだが、1876年8月21日に分割され、信濃国部分が長野県に合併され飛騨国部分が岐阜県に合併されて廃止される。 信濃国:一般に東信・北信・中信・南信の4地域に区分する。当初、明治4年(1871)の廃藩置県直後は、東信4郡(佐久・他県・更級・埴科)・北信2郡(高井・水内)を併せた長野県と、中信4郡(安曇・筑摩)・南信3郡(諏訪・伊那)・飛騨国全域3郡を併せた筑摩県に分かれてしまう。 ところが筑摩県は明治9年(1876)に廃止され、飛騨3郡が岐阜県へ、中信2郡(安曇・筑摩)、南信2郡(諏訪・伊那)が長野県に編入され、現在の長野県が成立。それは旧来の信濃国全体を統合するものであり、この時初めて信濃国は統一された。 長野県歌「信濃の国」(1968年<昭和43> 指定) 長野師範学校の記念運動会で女子部生徒のお遊戯用として作られたが、後に長野師範学校の校歌になり、昭和43年に県歌に指定される。 長野県民の中で、「君が代」を知らない人はいてもこの「信濃の国」を知らない人はいないだろうという程県民に浸透している歌で、小学校入学と同時に教わる。県外でも長野県民が集えば必ずと言っていい位「信濃の国」が合唱されるといいます。 平成10年(1998年)2月の冬季長野オリンピックの開会式で日本選手団が入場する際、会場で湧き起こった大合唱こそ、「信濃の国」でした。 『ひだとみの 合併から130年』(上)「道」の力 中日新聞 2006.08.20 1876(明治9)年8月21日。筑摩県(今の長野県)の一部になっていた飛騨三郡(吉城大野、益田郡)と、従来の岐阜県だった美濃が合併、ほぼ現在の「岐阜県」が誕生した。その時からちょうど130年。飛騨と美濃の関係はどう変わり、何が変わっていないのかそこから見えてくるのは、今の「岐阜県」の等身大の姿かもしれない。 昨年二月に長野県から越県合併した中津川市山口地区。木曽川を挟む同市坂下地区から眺めると、真新しいループが目にとまる。県が整備を進める「ふるさと椿街道」だ。 越県合併で、岐阜県は全国に名の通った馬籠宿という観光資源を得た。これを機に膨らんだのが、妻籠(長野県南木曽町)や馬籠から、飛騨の下呂、高山までを含めた広域観光構想。椿街道はこれらを結ぶルートの一部と期待されている。 馬籠宿 道路整備はこれまでも飛騨と美濃の距離を近づけ、交流の下支えとなってきた。代表格は東海北陸自動車道だ。郡上市の吉村安房郡上八幡観光協会長は「東海北陸道が飛騨清見まで開通した際は通過されるだけかと心配したが、観光客が増えてほっとしている」。同市八幡町を訪れる観光バスは従来年間約2800台だったが、飛騨清見までの開通後は5000台に。観光客も二割ほど増えたという。 しかしその半面で、ルートから外れた地域には、道路は負の要素となり得る。国道41号は東海北陸道の影響で交通量が減少。かつて、夏や冬の観光シーズンに頻繁に見られたという数キロの渋滞はいまや珍しくなった。 沿道の下呂温泉は、バブル真っ盛りの1990年度の宿泊客は165万人に上ったが、その後下り坂。2004年度は102万8000人と大台割れ寸前まで落ち込み、2005年度はやや持ち直したが108万3000人だった。それだけに広域観光への思いは強く、下呂市観光課は下呂温泉に泊まって妻籠・馬籠と恵那峡などをめぐるモデルコースを設定。中津川市との連携を強めつつある。 国道257号の飛騨・美濃境に位置する舞台峠。ここでも下呂側のドライブイン「舞台峠観光センター」社長の日下部彦宏さん(41)が「かつては高山や奥飛騨に向かう車も多く富山ナンバーもよく見た。車はそのころより確実に減った」。しかしそうした中でも、明るい材料が出ている。「通行量は少しずつ回復している」と、峠近くの中津川市加子母で産直市場を運営する中島紀于さん(61)。最近の売上高は月2000万−3000万円に達し、過去最高の水準に。芝居小屋「明治座」を週六日開くなど、地元の地道な努力が人寄せにつながっているようだ。 県は1991年、全市町村が東海北陸道の関・美濃インターチェンジ(IC)まで一時間以内で到達し、それと並行して最寄りのICまで三十分以内での到着を目指す「県土一時間交通圏構想」を策定。飛騨と美濃の“一体化”を推し進めてきた。 しかし「道路事情が良くなった半面で若者の流出も進み、飛騨にはさびしい思いをしている人も多い」との声は県庁内からも漏れる。道路整備だけに依存しない知恵と工夫は、これまで以上に必要になっている。 『ひだとみの 合併から130年』(中)交わる文化 中日新聞 2006.08.21 飛騨市河合町(旧河合村)と海津市南濃町(南濃町)。県の最北端と最南端で、十年にわたる草の根交流が続いている。毎年春夏、冬は南濃町の子どもや住民らが河合町を訪れ山菜採りや川遊び、ソリ遊びを体験。秋は河合町の保育園児や住民らが南濃町を訪れて、ミカン狩りを楽しむ。昨年度の参加者は合計で延べ三百人を超えた。 きっかけは、河合町の河合保育園と、南濃町の石山、山崎、庭田の三保育園の間の交流だった。1996年2月、岐阜市で開かれた会合で河合保育園が行った保育の発表に南濃側の保育園スタッフが感動、その年から相互に訪問することに。 「最初は同じ県でミカンが採れることも、南濃町の場所も知らなかった。気候や生活感の違いにお互い驚いた」と河合保育園の田口理子園長(54)。最初の年の三月に南濃町から訪れた参加者は、積雪にもかかわらず普通の靴。河合町の人が慌てて長靴を貸した。また初めて南濃町を訪れた河合町の住民からは「てんつく(空)が広いな」の声が漏れたという。 交流会に参加し続けている河合町角川の下島かをるさん(81)は、今では二日に一回は南濃町の女性らと電話する仲。1998年に河合町が豪雨災害に遭った時、南濃町からはすぐに支援物資が送られ、関係者が見舞いに訪れたといい「涙が出るほどうれしかった。本当の身内みたいに思えた」。下島さんは振り返る。 各地域毎に特色ある文化や産業をはぐくんできた岐阜県。飛騨と美濃、それぞれの個性を組み合わせて新しい魅力を創造しようという取り組みも活発だ。木を使った新たなアイデアの作品を求め、県木工デザイン協会が主催する「岐阜・木の国のデザイン展」のコンペティション。昨年度の出品作品の中に、美濃和紙を使ったついたてがあった。
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