今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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8月22日、空海が帰国

 平成18年8月22日(火)麻生氏の戦術に誤算、党内の大勢は安倍官房長官支持。

 806年8月22日、804年に遣唐使と共に唐に渡った空海が帰国。真言宗を将来。

 空海は正規の留学生(るがくしょう=長期滞在)ではなく、如何なる資格で唐に
渡ったか不明。遣唐使長官の私的通訳ではなかったかという説もある。

 ○ 空海伝(774〜835)

 伝承によれば空海は、久米寺(奈良)の塔で「大日経」と巡り会い、密教的宇宙観に
惹かれて行く。しかし、その経はサンスクリット語で書かれたり、呪文や秘文について
分からない点が多く、遣唐船で唐に渡りじかに密教を学ぶことを決意。叔父の阿刀大足
(あとのおおたり)や大足が仕えた恒武天皇の第三皇子に取り計らってもらい、留学僧と
して唐に渡る。空海31歳のとき。

 空海は804年に最澄と共に遣唐船で入唐する。唐で般若三蔵らからサンスクリット語
を学んでから、青龍寺に入り密教第七祖・恵果より密教の正当な後継者として、密教の
全てを伝授される。その時、恵果より「遍照金剛」の名を賜る。入唐より2年後、空海
は帰国。だが上京は許されず、九州大宰府の観世音寺に身を寄せていたと言われている
が、数年間消息が途切れる。この頃、叔父の阿刀大足の仕えていた桓武天皇第三皇子・
伊予皇子が川原寺に幽閉され、自害している。

(最澄は既に高名の僧であり、身分も国費の還学生<げんがくしょう=短期滞在>です。
空海は出自は良くとも一介の僧に過ぎず、当然、長期滞在組だった。本来ならば、自身
で写経するべきところを、多大の資金で写経を依頼し、法具も多数購入しました。しかも
わずか二年で帰国すると言う、“勝手なふるまい”をした形になります。当然、朝廷から
疎まれますが、空海の窮地を救う事になるのが、彼が日本に将来した多くの経典でした。)

 809年、嵯峨天皇の時、上京が許され高尾山寺に入る。810年薬子の変が起こり空海は
鎮護国家のための大祈祷をする。やがて最澄は空海より金剛界結縁伝法灌頂を受け密教
を学ぶ。だが、筆授により密教を極めようとする最澄に対し、空海は密教の深奥の境地
である「理趣釈経」の借覧を拒絶する。最澄は弟子の泰範を空海の下に派遣しますが、
泰範は結局、空海の弟子となってしまい最澄の下には戻りませんでした。愛弟子を空海
に奪われた最澄の悲嘆は深く、以後空海とは決別する。

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          風信帖(空海から最澄への手紙)

 風信雲書、天より翔臨す。之を披(ひら)き之を閲(けみ)するに雲霧を掲ぐるが如し。
兼ねて止観の妙門を恵まる。頂戴供養し、おくところを知らず。已に冷かなり。伏して
惟みるに、法体何如に。空海推(うつ)ること常なり。命に隨ひ彼の嶺に躋攀(せいはん)
せんと擬(はか)るも、限るに少願を以てし東西すること能はず。今、我が金蘭及び室山
と一處に集会し、仏法の大事因縁を商量し共に法幢を建てて仏の恩徳に報いんと思ふ。
望むらくは、煩労を憚らず、暫く此の院に降赴せよ。此れ望む所、望む所。そうそう 
不具 釋空海 状(しる)して上(たてまつ)る。

                     九月十一日
東嶺金蘭 法前
      謹空 (「釋空海」の「海」は毎+水)


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        高野山根本大塔

 816年、帝より高野山を賜り開山に着手。821年5月、故郷四国讃岐の満濃池の修築に
当たる。池(周囲約20キロ)に壇を築き、昼夜を分かたず祈祷を行い、空海を慕う民衆が
参集した。最新の建築技術を用いて9月には修築を完了。誰もがなし得なかった快挙。

(満濃池<現・香川県満濃町>は周囲約20km、貯水量1540万トンの日本一の灌漑用溜池。
大宝年間(701〜704)に、讃岐国守・道守朝臣の命により築かれたものが最初とされる。
その後、度重なる洪水により堤が決壊。 818年にも洪水により決壊し、朝廷の築池使で
ある路ノ真人浜継が、修築の為に派遣されるが工事は困難を極めた。弘仁12年(821年)
国司や民百姓たちの願いにより、空海が改修工事の監督として迎えられた。空海は「百
姓、恋慕うこと実に父母の如し」と評される程に民百姓たちから慕われていたと言う。
空海は『逆アーチ型』の堤防を築くことにより、僅か三ヶ月程で修築を成功させた。)

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          まるで湖のような満濃池

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          満濃池

 822年、東大寺に真言院を建立し、翌823年、東寺を賜り教王護国寺と名づける。東寺
を真言宗の道場とし、真言宗以外の宗派の立入りを禁じる。叔父の阿刀大足をして代々
東寺の管理を賄う。827年、淳和帝の時、大僧都に任じられる。

 828年、日本初の身分を問わない無償の学校・綜芸種智院を創立。830年、主著である
「秘密曼荼羅十住心論」を著し、生きながらにして仏となる(即身成仏)の理論を完成。

 835年3月21日寅の刻、声明の響き渡る中、入定(遷化)。「入定後56億年後に、弥勒
菩薩の御前にはべり現世に現れ、世を救うだろう」と予言する。921年、弟子達の熱心な
奏請(そうしょう=天子に奏上して裁可を求める)により、朝廷から「弘法大師」の諡号
を賜る。

(弥勒菩薩:サンスクリット語ではマイトレーヤ。釈迦入滅後56億7千万年の未来に姿を
あらわす仏。現在は兜卒天で修行中。この気の遠くなる年数はさながら永遠に如来は下生
し給わず、無佛の時代が果てしなく続くように思われる。弥勒の兜卒天での寿命は4000年
であり、兜卒天の1日は地上の4000年に匹敵するという説から、下生までに4000×4000×
360=57億6千万年かかるという計算に由来。後代に56億7千万年に入れ替わったようだ)


 弘法大師空海、「最期のお言葉」

 生まれ、生まれ、生まれ、生まれて、生のはじめに暗く、
 死に、死に、死に、死んで、死の終わりに冥し(くらし)。

              南無弘法大師遍照金剛菩薩。

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     高野山奥の院(弘法大師入定の地・御影堂) 今、在ますが如くお仕えする


 露の世の生々流転のこの命 つゆほどだにも吾がものにあらじ


 空海は、お四国八十八ヶ所霊場を開きましたが、水銀の鉱脈と重なる霊場も少なくあり
ませんでした。当時、水銀は仏像の鍍金に不可欠な、貴重な金属でした。水銀に金を溶か
し込み仏像に塗り、松明(たいまつ)の火で、水銀をとばします。このため職人は水銀中毒
になったり、松明の有害な煙で失明などしたと言います。法隆寺資材帳にも、記載される
水銀と言う貴重な物資を、空海はどのように戦略的に用いたのか。

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