今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年8月24日(木)中日負けた、でも阪神も負けてM30。

 1945年8月24日、【浮島丸事件】が起きました。

 ようやく戦火も収まり、昭和の忌まわしい動乱にやっと幕が下りたと思われた
そのわずか9日後の昭和20年8月24日のこと。多数の人命を乗せた1隻の船が
日本沿岸で突如、爆発を起こし、その船体は中央から2つに裂けて1時間後には
マストの一部を残して海面から姿を消した。現地官民の懸命な救助活動も空しく
無惨にも乗員乗客549名(日本政府発表による)が死亡する大惨事となった。

 その時、浮島丸は日本に強制徴用されていた朝鮮人労働者で帰国を希望する
人とその家族たちを乗せ、2日前の8月22日、青森県下北半島の大湊を出港して
一路、朝鮮の釜山を目指したばかりだったが、船は外洋を進むことなく、なぜか
途中で航路を舞鶴湾方向にかえ、舞鶴港に入港しようとしてこの悲劇に遭遇。

 しかし、朝鮮のわずかな現地新聞を除き、当時の日本国内では全く報道され
なかった。その後、機雷に触れたのではとか、なんらかの衝撃による爆発かと
諸々の風説は流れたものの、やがてすべてが闇の中に消えていった。

 浮島丸、4.730トン、昭和12年に進水し、ディーゼル・エンジンを積載した
最新の貨客船として沖縄航路に就航した。昭和16年、用途別砲艦として徴用を
受け、佐世保や横須賀を母港に南方そして北方の洋上作戦に従事した後、昭和
20年4月大湊警備府を母港として特設駆逐艦の命を帯びていた。この頃には
日本国艦艇の約2,500隻が海の藻屑と化している始末で、浮島丸は数少ない生き
残り艦になっていた。

 当時の大湊警備府は、北海道・樺太・千島の警備に当たっていた。昭和18年
5月のアッツ島玉砕以降の日本の本土防衛線が後退し続けた結果、警備府は
大本営による本土決戦態勢に呼応して下北半島の軍事要塞化に拍車をかけた。
その労働力不足は朝鮮の現地から海軍軍属募集の名目で多数の朝鮮人を集めて
補充したが、大多数は強制連行であり、その数は4000とも8000人とも言われ、
彼らは劣悪な労働条件のもとに労働を強いられた。

 やがて8月15日、日本は崩壊し、軍の命令指揮系統は乱れてデマと噂で大湊
全体が不安と無秩序の中にあった。その時、大湊警備府は徴用朝鮮人の早期の
本国送還を意図する。戦時中の軍の厳しい抑圧に対する朝鮮人の反乱を恐れて
の処置とも噂された。釜山行きを知った浮島丸の艦長以下、すべての乗組員は
反対したが、司令部側は強く出港を迫る。浮島丸側の抵抗も激しく、機関部の
巧妙な破壊や航行中の日本の近港への逃げ込み、機雷原を安全に行く航路図の
不備の指摘などで抵抗したが、結局天皇のご命令という名目といきり立つ参謀
の軍刀に追われるように錨を上げることになった。

 24日にGHQの指示でいったん舞鶴に入港、そこで大爆発を起して乗員乗客
もろとも沈没します。朝鮮人労働者3725名中524名、乗員255名中25名、計549名
が犠牲になったとされていますが、犠牲者数を疑問視する説もあり、爆発が
戦時中に敷設された機雷によるものであったか、或いは軍人の自爆であった
のかどうかも含めて、真相はいまだ明らかにされてはおりません。10年に満た
ない間に貨客船、海上護衛隊旗艦、連絡船、引揚船とめまぐるしい運命を
辿った浮島丸の謎に満ちた最期でした。日本側はこれについて、何らの調査も
せず今日に至っており、韓国遺族側より訴訟が起こされている。

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 2001年8月23日、京都地裁・一審

 原告らの内、乗船者本人として損害賠償請求している20人の内、15人に対し
安全運送義務を履行できなかった責任を認め、一律300万円の慰謝料の支払いを
命じた。(原告、被告<国>ともに不満の判決であった。)

 2003年5月30日 大阪高裁・控訴審

 韓国在住の生存者と遺族計80人が日本政府に損害賠償などを求めた訴訟の
控訴審で、大阪高裁・岡部裁判長は5月30日、一部原告に対して日本政府の
安全運送義務違反を認めた一審・京都地裁判決の賠償命令を覆し、原告側の
請求をいずれも退ける判決を言い渡しました。

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