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平成18年9月1日(金)昨夜:川上憲伸、8回悪夢の連続被弾、自責8失点負け投手。中日新聞「憲伸背信」の見出しはヒドイ、昨日は阪神を誉めるべき、「阪神会心!」。 責めるなら 4番ウッズの 癇の虫。 東京都中野区の誤報が、「防災の日」を強烈アピール(2006年8月31日) 「東京湾を震源に地震発生、2時間半後に「警戒宣言が発令されました」 防災の日前日の31日夜、東京都中野区で街頭にある防災行政無線のスピーカーから東海地震の「警戒宣言」発令を告げる放送が誤って流れた。ほんの2時間半前に東京湾が震源の地震が発生し、中野区でも震度3を観測したばかり。区役所には、「どこに避難したらいいのか」などの問い合わせが約300件殺到。 「ただいま内閣総理大臣から東海地震の警戒宣言が発令されました。中野区では震度5程度の揺れが予測されます。落ち着いて行動してください」田中大輔区長の声が流れた。 区は直後に誤報に気づいたが、住民からの問い合わせに追われ、訂正放送を流したのは放送が流れてから約40分後。この間、警察消防にも問い合わせが相次いだ。 東京にお住まいの皆様方、震度3の地震につき、お見舞い申し上げます。 浅草の十二階の崩壊 9月1日は、「防災の日」(関東大震災記念日)です。 1923年(大正12年)の9月1日、午前11時58分。関東にマグニチュード7.9の大地震。死者・行方不明者14万人以上という大災害となる。(関東大震災) この日を忘れることなく災害に備えようと、1960年(昭和35年)から「防災の日」が制定されました。8月30日〜9月5日は防災週間にあたります。 ◇ 朝鮮人・中国人の虐殺事件 関東大震災の混乱に乗じ、多くのデマが意図的に流され、社会不安を煽り、各地で種々の騒乱が発生しました。特に朝鮮人暴動のデマが流され、朝鮮人6000余名が大量虐殺されました。 パニック状態の中で1日の夕方から、「朝鮮人が来襲して井戸に毒をなげ放火・強盗・暴行をしている」という流言が生まれ、市民の不安と恐怖を煽った。朝鮮人に関する悪質なデマは、翌2日には東京・横浜などの震災地に広まりました。 政府は2日午後に、緊急勅令により戒厳令を部分的に適用して軍隊を出動、警察・軍隊は市民に警戒をよびかけ、各地で在郷軍人会や青年団などに自警団を作らせた。日本刀や竹やりなどで武装した自警団員は、極度の不安と緊張の中で朝鮮人を見つけては殺害し、また暴行をくわえて警察や軍隊に引渡した。やがて噂が嘘だと分かると警察は5日から自警団の規制にのりだし、朝鮮人への迫害は納まった。この間、軍隊・警察・自警団の手で数千人の朝鮮人と数百人の中国人が殺害されました。 朝鮮人犠牲者慰霊碑(横網町公園) ◇ 東京都慰霊堂(横網町公園) 東京都慰霊堂がある横網町公園は陸軍被服廠(しょう)跡です。関東大震災の際、公園予定地で更地になっていたこの場所は、多くの罹災者の避難場所になりました。多くの家財道具が持ち込まれ、立錐の余地もないほどの状況で、周囲からの火の粉が家財道具に燃え移り、また火災旋風が巻き起こり、この地だけで東京市全体の犠牲者の半数以上の推定3万8000人が犠牲になったとされます。 震災後、犠牲者を慰霊し、このような災害が二度と起こらないように祈念するための慰霊堂を建てることになり、官民協力の下、広く浄財を求められました。東京震災記念事業協会によって1930年9月に「震災記念堂」として創建され、東京市に寄付された。身元不明の遺骨が納骨され、1931年(昭和6年)に震災復興記念館が建てられました。 その後、第二次世界大戦における1944年・1945年(昭和19年・20年)の一連の空襲により、再び東京は焦土と化し、関東大震災を超える7万7000人あまりが犠牲となった。1948年より、各地に仮埋葬された身元不明の遺骨を納骨堂に改葬し、戦災者整葬事業が完了した1951年に「東京都慰霊堂」と改称しました。 本堂は伊東忠太設計によるもので、寺院風の建築となっている。200坪の講堂を持ち三重塔がその奥にある。三重塔は高さ約41メートルで、基部は納骨堂となっています。講堂には祭壇があり、震災犠牲者、空襲犠牲者の霊をそれぞれ合祀した巨大な位牌が2基祀られています。 ↓ 奥のほうに巨大な位牌2基が祀られているのが見えます。 東京都慰霊堂(過ぎし夏、叔母と訪ひし慰霊堂 涼しき堂宇いたましき写真) ◇ 伊東 忠太(いとう ちゅうた、 1867年〜1954年) 明治から昭和期にかけての建築家、建築史家で、震災祈念堂(1930年)の他にも、今時俄然話題沸騰の遊就館(1930年)、子供の頃、何とも奇異に映った築地本願寺(1934年)、湯島聖堂(1934年) などの設計で知られる。 震災遭難児童弔魂像 ◇ 震災遭難児童弔魂像 (東京都慰霊堂前) 東京都墨田区横網町の横網公園、東京都慰霊堂(元・被服廠<しょう>跡)に地震により不幸にして災害に遭い死亡した小学校児童約五千人の死を悼み、当時の学校長等が中心となって寄贈した震災遭難児童弔魂像があります。 この悲しみの群像は、第二次世界大戦たけなわの頃、戦力増強の一助として金属回収され、台座だけがむなしく残されていたが、昭和36年、当初の作者・小倉右一郎の高弟である、津上昌平、山畑阿利一の両氏により、往時の群像を模して再建されたもの。慰霊堂内には、朝鮮人犠牲者の慰霊碑もあります。 震災直後の消火作業 大正天皇の摂政だった昭和天皇の慰問風景 ◇ 夏草と見しまに吹くや秋の風 毎年、9月1日前後が「二百十日」に当たります。雑節の一つで、立春から210日目にあたり、この日に台風が来ることが多いとされます。稲の花が開く時期で、古来より農家では特に警戒されています。八朔(はっさく・旧暦8月1日)や二百二十日とともに、農家の三大厄日とされます。台風襲来の特異日で、今日から始まります富山県八尾町の「おわら風の盆」を始め、各地で風鎮めの祭が行われて参りました。
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