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平成18年9月12日(火)昨夜:ザワヒリ「イスラエルでのジハード強化が重要」 1571年9月12日、信長が比叡山延暦寺を焼討ちにし、僧侶をなで斬りにする。 信長の「比叡山をして命あるもの無からしめよ」との下知により、僧侶はもとより婦女子にいたるまでなで斬り(皆殺し)にする。諸堂に火を放ち、一山悉く灰燼に帰す。佛心篤き光秀も、この時は鬼神の働きをなし恩賞賜るも、その恨み少なからず、のちの変につながるとか。 元亀2年(1571年)9月12日、織田信長が比叡山延暦寺を焼討ちにする。前年に南近江に兵を進めた浅井・朝倉両氏の一部は、延暦寺を拠点として信長に対抗していた。信長はその報復行為として、根本中堂や山王二十一社をはじめとする比叡山一山をことごとく焼き払い、これにより堂宇と共に寺宝や古文書類の大部分が失われた。 (叡山焼討ち無かりせば、あまたの国宝今にあり、恨みはふかし信長公) 信長のこの行為は世人の非難を集めたが、大荘園領主であり宗教的権威でもある延暦寺を否定したことは、中世から近世への移行期にあって大きな意義をもつと言われる。信長の死後、豊臣秀吉や徳川家康の寄進を得て延暦寺は復興し、寛永年間(1624年〜1644年)に旧観に復す。
伝教大師最澄 (兵庫・一乗寺蔵)
『国宝とは何物ぞ、宝とは道心なり、道心あるの人を名付けて国宝となす。故に古人の言わく、径寸十枚これ国宝にあらず、一隅を照らす、 是れすなわち国宝なりと』。(径寸十枚とは財物を言う) 最澄の草堂に過ぎなかった比叡山寺が官寺として、延暦寺の寺名が与えられたのは、弘仁14年(823年)である。また同年には教王護国寺(東寺)が空海に与えられている。天台・真言と言う新興宗教が、伝統の旧仏教・南都六宗に拮抗してゆく時代。 つまり、平安京でも教団勢力を持て余し、新興勢力をもって牽制せんとしたもの。法相宗の会津の徳一と最澄との法論(宗論、法戦とも)は名高い。(後世の判定では、最澄に軍配があがっているようだ。) ※ 南都六宗:奈良時代(710〜784)における仏教の代表的な六宗派。三論・成実(じょうじつ)・法相(ほっそう)・倶舎(くしゃ)・律・華厳の六宗。後世の宗派と異なり、経論の研究学派としてアカデミックな側面が強い。 ※ 南都七大寺:東大寺(華厳宗)、興福寺(法相宗)、西大寺(律宗)、元興寺(華厳宗)、大安寺 (三論宗、現・高野山真言宗)、薬師寺(法相宗)、法隆寺(法相宗、現・聖徳宗)を指す。 ○ 神仏を超克したカミ・信長 政治・経済・軍事上の一大勢力であった仏教教団は、徹底的な構造改革を目指す信長にとって、あまりにも目障りな存在であった。旧来、神仏に異議を唱えることなど何びとも為しえず、為に叡山の僧兵は神輿を担ぎ都に押し出し、頻繁に政権を威嚇するなど目に余っていた。 “古よりの美しきもの”を尊ぶ限りり、信長の目指す国づくりは成らず、浅井・朝倉をかくまった事を好機と捉え、旧弊の世を殲滅せんとしたのが、信長の「叡山焼討ち」だった。 神仏を否定した信長は、自身を神として演出し、朝廷に対抗しうる権威付けを構想していたとも考えられる。彼が創建した安土城は、従来の城の結構とは大いに異なるもので、中空構造であったと伝えられる。安土城には、帝の御座所もあった。そして信長が住まいしたと言われる天守閣は、その遥か高みに位置するものであった。 そして、信長の“御座所”天守閣もろとも、安土城は明智光秀によって炎上する。 ※ 京都・妙心寺には「明智風呂」と呼ばれる蒸し風呂があります。本能寺の変後、逃れてきた光秀は一時、この辺りに身を隠したと言う。時に利あらず、腹を掻っ切らんとする光秀に、「生きよ」と強く諭した僧あり。光秀、その言に感じ入り、幾ばくかを寄進す。光秀の死後、その菩提を弔うため浴室を設ける。 10人ほどが入れるもので、床下の釜で湯を沸かし蒸気を浴びるもの。禅宗では、禅堂(坐禅堂)、浴室、東司(とうす、トイレ、境内地の東に配す)は三黙堂と称して、“禁談”の聖域。そもそも新到 <新入り> 三年白歯を見せず、と言われ、破顔大笑などもっての外の世界です。
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秀吉の時代にも、宗教関係の抗争がありましたし、徳川の世になってはキリスト教迫害がありました。私は辻邦生の作品を愛好していますので、これらを通して色々教えられました。政治と宗教は相性が悪い?これは冗談にもなりませんね。
2006/9/16(土) 午後 8:48 [ kaz*_51** ]