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平成18年9月13日(水)昨夜:中田が初完投勝利、井上2本。巨人、秋田に散る。 9月13日は、「乃木祭」です。 (祭日:神道の命日) 1912年(大正元年)9月13日、陸軍大将の乃木希典(まれすけ)は、明治天皇大喪の日の夜に静子夫人と共に殉死。その後、彼の邸宅のあった地や、京都・伏見に所在する明治天皇陵のほど近くなどに乃木神社が設けられた。(乃木は自死であるため、靖国には祀られず。) 「乃木は早朝から夫人とともに殯宮(ひんきゅう、埋葬まで安置する仮殿、もがりのみや)に出向き、早々に亡骸に別れを告げた。一旦、赤坂の自邸に戻る。まもなく寺内正毅大将が電話をしてきた。余りに顔色が悪かったせいであった。乃木は、大丈夫だと一言ですませ、厩の二頭の愛馬とも別れを告げる。やがて夜になり、乃木は辞世を書いて自室に籠もった。 夫人が外から声をかけるが、「入ってはならぬっ」と厳しく言うと「私もお供えものがございますから」と言う。やむなく入室を許すと、夫人はすでに白襟の黒紋服に身を整えて辞世の歌を携えていた。「私もお伴させていただきます」と決意は堅い。午後8時。かねて予定通りに、霊轜(りょうじ、貴人の霊柩車)出門の号砲を合図に、夫妻はともに相い果てた。乃木希典63歳、静子53歳」 水師営の会見(中央に乃木将軍とステッセル) 敵将に佩刀を許した事が海外では、高く評価された。 1904年、旅順攻略戦後にロシア側のステッセルとの間で水師営の会見が行われた。そこでの乃木の紳士的で寡黙な雰囲気は、諸外国の記者が持つ日本人観に大きな影響を与えたといわれている。乃木はステッセルらロシア軍幕僚に帯剣を許し従軍記者たちの再三の要求にも関わらず、ロシア軍との会見風景は一枚しか撮影させず、彼らの武人としての名誉を重んじた。 ◇ 乃木希典(のぎまれすけ、1849〜1912年) 明治を代表する軍人。陸軍大将従二位勲一等功一級伯爵。第10代学習院院長。畏敬と親愛を込めて乃木大将などの呼称で呼ばれることも多かった。 東郷平八郎とともに日露戦争の英雄とされ、「聖将」とも呼ばれた。若い頃は放蕩の限りを尽くすも、ドイツ帝国留学において質実剛健なプロイセン軍人に感化され、帰国後は質素な生活を旨とするようになった。天皇の後を追った乃木夫妻の自殺は、殉死として美談にもなった。山口県、栃木県、東京都、北海道など、複数の地に乃木を祀った乃木神社があります。 「乃木将軍と辻占売り」像 (東京・赤坂の乃木神社) 街でたまたま見かけた辻占売りが、父親を旅順戦で亡くしたために幼くして一家の生計を支えていることを知り、少年とその祖母に乃木が謝罪したという逸話による。乃木の人徳を偲ばせるものとして「乃木将軍と辻占売り」という唱歌や講談で巷間、有名になる。 ◇ 乃木は静堂の号で漢詩を詠む 「金州城外の作」 山川草木転荒涼 (山川草木、うたた荒涼) 十里風腥新戦場 (十里風なまぐさし、新戦場) 征馬不前人不語 (征馬すすまず、人語らず) 金州城外立斜陽 (金州城外、斜陽に立つ) 「爾霊山」 (にれいざん、203高地を指す) 爾霊山険豈難攀 (爾霊山、険なれども、あに攀<よ>ぢがたからんや) 男子功名期克艱 (男子功名、克艱を期す) 鉄血覆山山形改 (鉄血、山を覆て、山形改む) 万人斉仰爾霊山 (万人斉しく仰ぐ爾霊山) 203高地から旅順港を望む ※ 「己亥歳」 唐 曹松(晩唐の詩人、830年〜901年) 澤國江山入戰圖 (澤國の江山、戰圖<せんと>に入り=戦場となり) 生民何計樂樵蘇 (生民<民草>何ぞ計らん樵蘇<せうそ>に樂<やすら>ぐを) 憑君莫話封侯事 (君に憑<たの>む封侯の事を話<かた>る莫れ) 一將功成萬骨枯 (一將功成りて萬骨枯る)(樵蘇=薪取と草刈=生計) ◇ 駒大苫小牧・田中投手、プロ志望届提出 (2006/09/13) 夏の全国高校野球選手権大会で準優勝し、甲子園球場を沸かせた駒大苫小牧のエース・田中将大投手(17)が13日、高野連にプロ志望届を提出。同日午後、同校で記者会見を開き、プロ入りに向けた心境を披瀝。田中投手は25日に行われるドラフト会議で、日ハム、巨人など複数球団が1巡目指名候補に挙げており注目される。 田中投手は兵庫県伊丹市出身。185センチ、83キロで右腕から繰り出す140キロ台後半の速球と、高速スライダーが持ち味。37年ぶりの引き分け再試合となった今夏の甲子園決勝で、早実のエース斎藤佑樹投手(17)と息詰まる投手戦を展開。チームが二連覇を果たした昨夏の甲子園では優勝マウンドを経験し、最速150キロをマーク。
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