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平成18年9月24日(日)昨夜:31年ぶりの「つま恋」、団塊3万5千人が集う。 31年ぶりに再現した「吉田拓郎&かぐや姫コンサートin 嬬恋(つまごい)」に「団塊の世代」を中心にした3万5000人が駆けつけ、“伝説の野外コンサート”の再現を8時間にわたって堪能した。(静岡県掛川市のヤマハリゾート「つま恋」) ※ 伝説のコンサートとは、1975年8月2日夕から3日早朝まで行われ、約5万人の若者が大合唱した。 再現コンサートは、午後1時過ぎに開演。「旧友再会フォーエバーヤング」を歌いながら、ステージへ上がった吉田拓郎が「緊張もほぐれ、自宅にいる気分だ」と語ると、総立ちのファンから大きな歓声。かぐや姫の「なごり雪」に目頭を押さえ口ずさんだ。 9月24日は南洲忌です。 熊本城攻略ならず、明治10年(1877年)のこの日、自刃する。 錦絵:田原坂激戦之図 ◇ 西南戦争 明治10年(1877年)に起こった日本最後にして最大の内戦。主たる原因は、政府の改革に不満を持つ“抵抗勢力”である薩摩士族らの不満が噴出したもので、西郷隆盛らが押さえ切れず起こった内戦で、結局は反政府勢力の一掃につながった。 現在の熊本県・宮崎県・大分県・鹿児島県における、西郷隆盛を盟主に祭り上げた士族の反乱。明治初期の一連の士族反乱のうち最大規模にして、最後のもの。 倒幕の勇・薩長連合の薩摩藩に、何故これほどの新政府に対する不満が募ったのか? 遠因たる「明治六年政変」 明治6年(1873年)6月以来の閣議で議論された朝鮮問題は、8月17日に西郷隆盛を大使として派遣することに決定、明治天皇に上奏するも天皇からは、「岩倉具視の帰朝を待って、岩倉と熟議して奏上せよ」との勅旨が下りる。 岩倉帰朝後は、西郷を遣韓大使として派遣することに反対する木戸孝允・大久保利通らの内治優先論が出てきた。9月15日の再閣議で西郷派遣が決定するが、これに反対する木戸孝允・大久保利通・大隈重信・大木喬任らの参議が辞表提出、右大臣・岩倉も辞意を表明する事態に至る。 これを憂慮する太政大臣・三条実美は18日夜、急病となり、岩倉が太政大臣代行となる。西郷 隆盛・板垣退助・副島種臣・江藤新平は岩倉邸を訪ね、閣議決定の上奏裁可を求めるも、岩倉はこれを了承せず。 9月23日、西郷が陸軍大将兼参議・近衛都督を辞し、位階も返上すると上表、西郷は辞職したが、参議・近衛都督辞職は許可されたが、陸軍大将辞職と位階の返上は許されなかった。 翌25日、板垣退助・副島種臣・後藤象二郎・江藤新平らの参議も辞職。この一連の辞職に同調して、征韓派・遣韓大使派の林有造・桐野利秋・篠原国幹・淵辺群平・別府晋介・河野主一郎・辺見十郎太をはじめとする政治家・軍人・官僚600名余が次々に大量に辞任した。(明治六年政変) 私学校と士族反乱 下野した西郷は明治7年(1874年)、鹿児島県全域に私学校とその分校を創設。その目的は、西郷と共に下野した不平士族たちを統率するためと、県下の若者を教育するためであったが、外国人講師を採用したり、優秀な私学校徒を欧州へ遊学させる等、積極的に西欧文化を取り入れている点から、外征を行うための強固な軍隊を創出することが目的だった。私学校は、その与党も含め県令・大山綱良の協力の下、県政の大部分を握る大勢力へと成長してゆく。 一方、近代化を進める中央政府は明治9年(1876年)3月8日に廃刀令、同年8月5日に金禄公債証書発行条例を発布。この2つは「帯刀」と「禄の支給」という旧武士最後の特権を奪うものであり、士族に精神的かつ経済的なダメージを与えた。これらが契機となって、明治9年(1876年)10月24日に熊本県で「神風連の乱」、27日に福岡県では「秋月の乱」、28日に山口県では前原一誠による「萩の乱」が起こった。 私学校設立以来、私学校党による県政の掌握が進むにつれ、私学校に対する曲解も進む。曲解とは、私学校を政府への反乱を企てる志士を養成する機関だと言うもの。そしてついに明治9年(1876年)内務卿・大久保利通は、内閣顧問・木戸孝允を中心とする長州派の猛烈な提案に押し切られ、鹿児島県政改革案を受諾。この時、大久保は外に私学校、内に長州派という苦しい立場に立たされていた。この改革案は、県令・大山綱良の反対と地方の乱の発生により、その大部分が実行不可能となった。 しかし実際に実行された対鹿児島策もあった。その一つが明治9年(1876年)1月、私学校の内部偵察と離間工作のため中原尚雄以下24名の警吏を帰郷するという名目の下、鹿児島へと派遣したことであった。これに対し、私学校徒達は中原尚雄等の大量帰郷を不審に思い、その目的を聞き出すべく警戒していた。 1月29日、政府は鹿児島県にある武器・弾薬を大阪へ移すために、赤龍丸への搬出を秘密裏に行った。鹿児島の火薬庫にあった火薬・弾丸・武器・工作機械類は旧薩摩藩時代に藩士が拠出した金で整えたもので、一朝有事の際に藩士やその子孫が使用する物であると考えていた私学校徒は、この搬出に怒り、夜、草牟田火薬庫を襲って、弾丸・武器類を奪取した。この夜以後、連日、各地の火薬庫が襲撃され、俗にいう「弾薬掠奪事件」が起きた。この報を聞いた西郷は、「ちょしもたー」(しまった)と言葉を発し、臍を噛んだと言われる。 2月6日、私学校本校に「薩摩本営」の門標が出され、従軍者名簿の登録が始まる。2月8日に部隊の編成が開始され、2月9日、西郷の縁戚・川村純義中将が軍艦に乗って、西郷に面会に来るも会うこと叶わず、県令・大山綱良と鹿児島湾内の艦船上で会見した。この時に、大山がすでに私学校党が東上したと伝えたため、川村は西郷と談合する事をあきらめ帰途につき、長崎に打電し警戒を促す。一方、鹿児島では、2月9日に県庁に自首してきた野村綱から「大久保から鹿児島県内の偵察を依頼されてきた」という内容の自供を得て、西郷暗殺計画に大久保も関与していると考える。 征討軍派遣 薩軍が熊本城下に着かない内に、すでに政府側は征討の詔を出し、薩軍迎撃に動き出していた。薩軍が鹿児島を発したのが2月15日で、熊本城を包囲したのが2月21日。対して政府が征討の勅を出したのが2月19日であった。つまり薩軍が動き出してわずか4日で、熊本城を包囲する2日前だった。このことから明治政府の対応の速さの背景には電信などの近代的な通信網がすでに張り巡らされていたことがわかる。 明治政府は有栖川宮熾仁(たるひと)親王を鹿児島県逆徒征討総督(総司令官)に任じ、実質的総司令官になる副司令官には、山県有朋・陸軍中将と川村純義・海軍中将を任命した。これは、カリスマ的指導者である西郷に対抗して権威のある貴種を旗印として用いる為と、どちらか一方を総司令官にせずに、同じ中将の二人を副官に据えることで、陸軍と海軍の勢力争いを回避するためでもあった。 田原坂・吉次峠の戦い 3月1日から3月31日まで、現在の熊本県鹿本郡植木町大字豊岡で田原坂・吉次峠の激戦が繰り広げられた。春先で冷え込みが酷く、雨の降りしきる中で戦いは始まった。 官軍は田原坂防衛線突破のため、3月11日、軍を主力と別働隊に分けた。主力は田原坂・吉次峠の突破の為に、別働隊は山鹿の桐野利秋部隊の動きを封じ込む為におかれた。 だが主力軍は地形を存分に利用した薩軍の激しい銃撃と、抜刀白兵戦に手も足も出ず、田原坂の正面突破を諦め、西側から攻めて横平山を奪うことにする。 |

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