今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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9月24日、南洲忌 2

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       西南戦争の攻防戦の舞台・熊本城

 白兵抜刀攻撃に対抗するため、官軍も士族出身の兵卒を選び抜刀隊を組織するも討ち破られる。3月13日、新たに警視抜刀隊を組織。3月14日、官軍は田原坂攻撃を開始、結局、横平山を占領すること叶わず。だが警視抜刀隊が薩軍と対等に戦える事を確認。後に、この時の抜刀隊の功を称えて、有名な抜刀隊の歌が作られた。

 官軍は3月15日、薩軍の守備を破り、ついに横平山(那智山)を占領。この日、初めて官軍は、薩軍の防衛線に割って入ることに成功。3月16日は、戦線整理のために休戦。3月17日、官軍は西側からと正面からの攻撃を開始。しかし地形を生かした薩軍にあと一歩及ばず、田原坂の防衛線を破る事は出来なかった。この間、3月4日からの官軍の戦死者は約2,000名、負傷者も2,000名にのぼった。

 官軍・薩軍の田原坂での攻防は17日間続いた。しかし、薩軍の健闘もむなしく、植木方面への敗走によって、田原坂の重厚な防衛線は破られた。その後、官軍は田原坂を下って植木方面までの侵攻を試みたが、途中で薩軍の攻撃に遭い中止となる。

 3月1日に始まった田原をめぐる戦い(田原坂・吉次峠)は、この戦争の分水嶺になった激戦で、戦争から百年以上たった現在でも、現地では当時の銃弾が田畑や斜面からしばゝ発見されている。官軍は田原坂の戦いで薩軍を圧倒し着実に熊本鎮台救援の第一歩を踏み出す。


  城山籠城戦

 西南戦争が最終局面に入った9月19日、薩軍では一部の将士の相談のもと、山野田一輔・河野主一郎が西郷の助命のためである事を西郷・桐野に伏せ、挙兵の意を説くためと称して軍使となって、西郷の縁戚でもある参軍川村純義海軍中将のもとに出向いて捕らえられた。22日、西郷は「城山決死の檄」を飛ばし、決意を告知。

 「今般、河野主一郎、山野田一輔の両士を敵陣に遣はし候儀、全く味方の決死を知らしめ、且つ義挙の趣意を以て大義名分を貫徹し、法庭に於て斃れ候賦(つもり)に候間、一統安堵致し、此城を枕にして決戦可致候に付、今一層奮発し後世に恥辱を残さざる様、覚悟肝要に可有之候也。」

 9月24日午前4時、官軍砲台からの3発の砲声を合図に官軍の総攻撃が始まった。この時、西郷隆盛・桐野利秋・桂久武・村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は、西郷が籠もっていた洞窟の前に整列し、岩崎口に進撃。進撃に際し国分寿介・小倉壮九郎が剣に伏して自刃。途中、桂久武が被弾して斃れると弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は負傷して駕籠に乗っていた別府晋介をこころみて、「晋どん、晋どん、もうここでよかろう」と言い、将士が跪いて見守る中、跪座し襟を正し遙かに東方を拝礼した。遙拝が終わり、切腹の用意が整うと、別府は「ごめんなったもんし(お許しください)」と叫ぶや、西郷隆盛を介錯した。その後、別府晋介はその場で割腹。

 西南戦争による官軍死者は6,403人、薩軍死者は6,765人に及ぶ。この戦争で多数の負傷者を救護するために博愛社が活躍した。 博愛社:佐野常民・大給恒(おぎゅうゆずる)らが中心となり、傷病者救護を目的として組織した団体。明治20年に日本赤十字社と改称。


  西南戦争の意義

 政府の西南戦争の軍事費は4100万円にのぼり、当時の税収4800万円の殆どを使い果たす程に莫大なもの。政府は戦費調達のため不換紙幣を乱発、インフレが発生した。のちの大蔵卿・松方正義によって増税・官営企業の払い下げ・通貨整理がなされ、兌換紙幣の発行が出来るようになり、日本が欧米列強に並ぶ近代国家になる下地が作られた。しかし、松方デフレで農民の小作人化が進み(小作農率の全国平均38%→47%)、大地主が発生。また小作を続けられないほど困窮した者は都市に流入、官営企業の払い下げで発生した財閥が経営する工場で低賃金労働をさせられ、都市部の貧困層が拡大した。

 西南戦争は、士族の生活安定という初期の目的を達成出来なかったばかりか、当時の国民のほとんどを占める農民の没落をも招いた。また一握りの大地主や財閥への資本蓄積を進め、貧富の格差を助長することになったが、結果的に日本の近代化を進めた。また、この戦争で西郷が斃れた事により全国の士族の反乱が治まり、武士のしがらみを取り除く事も出来た。もし、西南戦争なかりせば、日本の近代化は、むしろ遅れたかも知れぬ。

 「官僚制の確立」も指摘されることであり、内務省主導型の政治の始まりでもあった。徴兵制による国民皆兵体制も定着。この戦争で薩軍の士気が高かったのは、西郷が総大将であったからだと考えた明治政府は、天皇陛下を大日本帝国陸軍・海軍の大元帥に就かせて、軍の士気高揚を図るようになる。


  征韓論

 朝鮮との修好をはかろうとした明治政府に対し、鎖国主義を執る朝鮮は日本の要求を拒みつづけた。ここにおいて朝鮮の非礼は許し難いとする征韓論がみなぎった。朝鮮もまた日本を軽んじ、応戦の構えを示したことで、一層事態は紛糾し国論は二分した。征韓論を唱える急先鋒とは、西郷隆盛とその指導下にある薩摩出身者、後藤象二郎、板垣退助、副島種臣、江藤新平らで、名目上の理由は朝鮮の非礼を糾すにあったが、その真意は、旧士族の不満を征韓によって解消するという旧態然とした政治意向であり、更に一部には士族中心の政府を樹立しようという政権欲があったことも伺える。

 一旦、決定しかけた征韓の議は、岩倉具視、大久保利通、木戸孝允らが欧米視察から帰国するや廟議変更を強要、明治4年10月23日に御前会議において非征韓を上奏し裁可を得た。近代国家完成のためには内治を整え、不平等条約の改正こそ最優先で、征韓などは論外、と言うものであった。

 ここに国策は決定、非征韓論者が政府の実権を握ると征韓論者は一斉に職を辞して下野。西郷は10月末に、郷里鹿児島への帰国の途につき、後を追う薩摩出身者は、陸軍少将・桐野利秋、篠原国幹ら約300人を数えた。


  新時代の幕開けは「維新の三傑」の死を以って完結する

 西郷が自刃する4ヶ月前の5月26日、木戸孝允は西郷の行く末を案じながら京都で病死。そして翌明治11年5月14日、大久保利通は宮中に赴く途中、刺客に襲われる。木戸45歳、西郷51歳、大久保49歳であった。三人三様の性格ながら手を握って国家統一を実現させ、明治新政府樹立の中心にたってきた功労者であった。


   見てきた、良かった、ハートフル。スーパーマン・リターンズ。
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   愛うすき世に甦るスーパーマン 我らがこころ愛にあふるる

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