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平成18年10月10日(火)昨夜:中日猛打爆発、優勝へのマジックナンバー1。 ぶい、ぶい、ぶいっ、今日にもV(今日負けて12日、阪神に勝つのもGoo) 10月10日は「目の愛護デー」です。(ブルーベリーがよろしいようです。) 一 一 ○ ○ ← 目の愛護デー 1977年10月10日、新宿の歌声喫茶「灯」が閉店。 ○ 歌声喫茶って、なに? 歌声喫茶(うたごえきっさ)とは、昭和30年代に流行した飲食店の一形態。 リーダーの音頭のもと、店内の客が一緒に歌を歌うことを主目的とする。 伴奏はピアノやアコーディオンのほか、大きな店では生バンドも入っていた。歌はロシア民謡、唱歌、童謡、労働歌、反戦歌、歌謡曲など。店が独自に編纂した歌集を見ながら歌った。昭和25年ごろ、新宿の料理店が店内でロシア民謡を流していると、自然発生的に客が一緒に歌い出し、歌声喫茶の走りになったといわれる。 昭和30年、新宿に「カチューシャ」、「灯(ともしび)」がオープン。これをきっかけに東京都内に歌声喫茶が続々と誕生。労働運動、学生運動の高まりとともに人々の連帯感を生む歌声喫茶の人気は上昇、店内は毎日のように人であふれ、最盛期には全国で百軒を超える店があった。また店の看板的存在であるリーダーの中からは、上条恒彦のようにプロの歌手としてデビューした者もいた。 歌声喫茶はうたごえ運動という政治運動において大きな役割を果たしたが、それだけでなく集団就職で地方から単身上京してきた青年たちの寂しさを紛らす心のよりどころでもあった。 昭和40年頃をピークに歌声喫茶のブームは急速に衰退、その後の10年ほどでほとんどの店が閉店。カラオケの登場と入れ替わるように多くの店は消え去った。 現在も営業している店がいくつかあるものの、客層は往時を懐かしむ中高年。懐古趣味ではなく、現代を“生きる”「歌声喫茶」の模索は困難なようです。 うたごえ運動 戦後、民主主義と平和を守るために1948年,関鑑子(あきこ)(1899‐1973)が中央合唱団を創設して、うたごえ運動が始められます。1953年には「うたごえは平和の力」をスローガンとして高まって行きます。 原水爆禁止運動は1955年に、第1回原水爆禁止世界大会としてスタートするが、1953年に「原爆を許すまじ」が作曲されている。1959年夏から60年にかけて、闘われた三池闘争は、多くの「労働歌」を作り上げて行きます。1972年5月15日の復帰まで闘われた沖縄返還闘争では、「沖縄を返せ」が高らかに歌われました。 うたごえ運動は職場や学園での平和と民主主義を守るサークル活動と密接に関連し、特にいわゆる活動家から一般の人々へ、事の重要性を分かりやすく訴える周知手段の一つだったといえます。労働歌・ロシア民謡に託された想いには、70年代に向けた革命的ロマンも満ち溢れていたと言えます。 最盛期は70年安保を控えた60年代で、70年安保が何となく過ぎ去ってしまい、大衆運動が凋落するとともに「うたごえ運動」も衰退して行きます。組織・団結から、“個の享受”の風潮が顕著になってまいります。 『歌声喫茶「灯」の青春』(集英社新書)丸山明日果 旅は一枚の古い写真から始まった。それは、青春の息吹を発散させながら歌う若い頃の母の姿だった─。荒廃した戦後日本の社会に、明るい夢を与えた「歌声喫茶」の誕生に大きく寄与した「灯」の創立メンバーのひとりだった丸山里矢。彼女の一人娘が、母の青春を探す旅に。 当時の関係者への取材を続けながら、母の生きた時代、激動の戦後日本の、ある側面を克明に切り取っていく。「青春」という言葉がまだ素晴らしい輝きを持っていた頃を描く、感動的なノンフィクションである。 当時の歌は、まさに世界を変えようという熱病に捉われた若者の賛美歌であり、人が信じうるものであるという確かな手応えを身体で伝えるものでした。特にロシア民謡やイタリア民謡にあふれるヒューマニテイーは、人間の尊厳を高らかに歌い上げたメッセージソングでした。 ※ 1967年には、佐良直美のデビュー曲「世界は二人のために」が大ヒット、そして1969年「いいじゃないの幸せならば」は、第11回日本レコード大賞を受賞する。60年代までの、皆で団結してがんばろう的な発想は絶えてなくなり、“個の時代”の70年代へと移り変ります。 皮肉にも「うたごえ運動」は、歌声によって団結し、歌声によって離散した。そして、歌声喫茶と歩調をあわせるように、「労音」も衰退して行きました。いろいろありましたが、今日の日本の暮らし向きが良くなった、と言う事です。団結から個人への“変調”は地域にも及びました。 秋ふかし、隣りは何をする人ぞ …
罪ふかし、隣りは人を殺すひと … 闇ふかし、己身の弥陀に鬼棲めり … |

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灯にはずい分通いました。最初ホワイトカラーの私には、異様な光景でした。労働歌や、ロシア民謡が多く異様な雰囲気でしたが〜〜馴染んで行きました。今思うと楽しい苦い思い出です。wamioda
2006/10/11(水) 午前 7:22
こ写真のころ、よく「灯」に行きました。
2008/1/17(木) 午後 10:14 [ kemukemuutagoe ]