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平成18年10月12日(木)昨夜:日ハム、王手。あとがない、ソフトバンク。 1960年10月12日、社会党委員長の浅沼稲次郎が右翼少年・ 山口二矢(おとや)に刺殺されました。 ○ 浅沼稲次郎暗殺事件 1960年10月12日午後3時頃、日比谷公会堂において演説中の社会党(現・社民党)委員長・浅沼稲次郎が17歳の右翼少年・山口二矢に暗殺された事件。約4ヶ月後にも少年による類似の右翼テロ(嶋中事件)が発生している。 事件の概要 この日、日比谷公会堂では、自民党・社会党・民社党3党首立会演説会(東京選管主催)が行われていた。浅沼委員長はこの日午後3時頃、演壇に立ち「議会主義の擁護」を訴える演説を始めた。浅沼が演説を始めた後、右翼の野次が激しくなり、司会者は自制を求めるが野次はやまなかった。 その後、浅沼が自民党の選挙政策についての批判演説を始めたところ、突然短刀を持った17歳の少年が壇上に駆け昇り、浅沼の胸を2度突き刺す。浅沼は出血多量により、ほぼ即死であった。享年61。この事件の一部始終は直後にテレビのニュースで全国に放送されたため日本国民に大きな衝撃を与えた。 (右翼は怖い、愛国党は怖い、と言う強烈な印象を与えた。) 少年はその場で現行犯逮捕され、11月2日夜、東京少年鑑別所で歯磨き粉を溶いて書いた「七生報国、天皇陛下万才」の文字を監房の壁に残して首吊り自殺を遂げた。 この事件の責任を取って、山崎巌国家公安委員長が辞任。この事件を機に刃物の追放運動が全国に広がるようになった。刺殺の瞬間を撮影した毎日新聞・長尾靖カメラマンは日本人初のピューリッツァー賞を受賞している。 (子供の頃、父親に「愛国党って、なに?」と聞いた時、母が、そんな事、教えちゃダメという感じで制止したことを思い出す。子供こころに愛国党はいけないもの、とインプット。ついでに、愛国も良くないものと、刷り込まれたみたいな…。) 犯人・山口二矢という男 山口二矢(やまぐちおとや、1943年2月22日〜1960年11月2日)右翼活動家。東京都生まれ。陸上自衛隊二佐であった厳格な父と優秀な兄の下、頭を押さえつけられるように育ったと言われる。玉川学園高等部に進んだが、1959年、16歳で赤尾敏率いる大日本愛国党に入党。しかし事件前には大日本愛国党を脱党している。なお、山口二矢には首謀者があり、その者は社会党内部にいる、との説は早くからあり、社会党でも右寄りであった浅沼が殺されたため、左派が台頭したのは事実。 ※ 私が高校生の時、通学の乗り換え場所だった数寄屋橋で、赤尾敏が熱心に演説していたことを思い出します。たまには、興味半分で聞いたこともあった。意外と筋が通ってるな、という印象を受けたものでした。 ◇ 赤尾 敏という“おじいちゃん” 赤尾 敏(あかお さとし、通称「びん」、1899.1.15〜1990.2.6) 元国会議員。右翼活動家。初代大日本愛国党総裁。東京都銀座数寄屋橋の辻説法による過激でユーモアをたたえたアジテーションで有名だった。 没後、公安警察の一部からは「過激ではあったが、至誠の人」という評価を得る反面、味方の「右翼」からはあまり好意を持たれていなかった。 1899年、愛知県名古屋市東区生まれ。少年時代は病気がちで、旧制愛知第三中学に進学後結核を患う。一時、親元を離れて三宅島で武者小路実篤による「新しき村」運動に加わり、賛同者の幸田露伴とも知り合う。数年間、農業をしながら療養生活を送ったが、この時、身を寄せたのが、三宅村神着地区の旧名主・浅沼家で、後の日本社会党委員長・浅沼稲次郎や大日本愛国党参与・浅沼美智雄(稲次郎の遠縁の親戚)らとの交流が始まった。 旧制愛知第三中学卒業後は左翼運動に参加し、大杉栄や後の日本共産党書記・長徳田球一らと活動するも逮捕され、釈放後の1925年に転向。建国会の書記長に就任。以後右翼活動に加わる。1942年のいわゆる翼賛選挙では、大政翼賛会の推薦を受けられない、所謂、非推薦候補ながら東京6区から出馬し3位当選を果たす。当選後は鳩山一郎、斎藤隆夫、中野正剛笹川良一など他の非推薦議員と同様に、翼賛政治会(翼政)に加入はしたものの、1943年の第81通常議会では戦時刑事特別法改正案に抗議し、委員を辞職(3月8日)、さらにつづく第82臨時議会では、東條英機首相の施政方針演説に対して、野次を飛ばして議場退場処分に(同年6月16日)、翼政を除名されるなど、右翼ながら反体制派議員としての行動が目立つ。尚、国会内でのビラ撒きにより元議員待遇を剥奪されている。 第二次世界大戦後にGHQによって公職追放され、追放解除後の1951年、当時杉並区議だった浅沼美智雄らとともに大日本愛国党を結成し、総裁に就任。1952年の総選挙に出馬して落選。以後、親米反共の立場からの右翼活動に関わる一方で、各種選挙に立候補し、参議院全国区では最高で12万票を獲得した。もっとも、選挙のたびに立候補したのは、選挙期間中も街頭で辻説法を行なえることが主な理由だった。参議院無用論を唱え、参院選立候補のたびに自分へも投票せず、棄権するよう訴え続けた。 党員であった山口二矢(事件当時は離党)が起こした浅沼稲次郎暗殺事件では取調べを受け嶋中事件では殺人教唆で逮捕されている(証拠不十分で釈放)。また浅沼は社会党右派であり何故、左派でなく、右派を襲撃したか疑問視する意見もある。 山口二矢は浅沼稲次郎の「アメリカ帝国主義は日中両国人民の共同の敵」発言に殺意を抱いたとも(山口二矢「斬奸状」)。また、赤尾が個人的に交流のあった浅沼を「善人だけに始末に悪い」と評したこともきっかけとなったのではないかと言う。 銀座数寄屋橋での辻説法は当地の名物であった。街宣車を導入した右翼のはしりとも言われ街宣車には日の丸や旭日旗とともに星条旗を掲げ、徹底して親米をアピール。また右翼としては珍しく、昭和天皇の戦争責任を認めた。韓国にも好意的であり「北朝鮮打倒のために日韓は協力すべき。領土問題がそれを阻むと言うなら、竹島など爆破して沈めてしまえ!」と主張。天皇ですら国民のためにあると主張し、尊皇主義者からは嫌われていた。 第二次世界大戦前の国会議員時代から、反ソ連の立場から対米、対英戦争に反対して、反戦演説会を開くなどした親米右翼の典型であり、戦前右翼からは売国奴との謗りも受けていた。北方領土問題については南樺太・全千島列島が日本固有の領土であると主張した。著書に、『憂国のドン・キホーテ』(山手書房)。 ○ 山口二矢供述調書 (幼少時部分、抜粋) 職業 大東文化大学、中国文学科一年生、全アジア反共青年連盟員 山口二矢(十七歳) 昭和十八年二月二十二日生 私は十月十二日、日比谷公会堂で立合演説中、社会党中央執行委員長、浅沼稲次郎を国賊として日本刀で刺殺致しましたが、浅沼を倒すに至った理由についてお尋ねがありましたので、私の幼少の時代からの生い立ち、思想の推移、動機等について申し上げます。 私達兄弟に対する父母の教育は、「勉強をしなさい」といって学校の勉強を良く教えて貰いましたが、子供の考えを尊重しそれを伸ばしていく指導だったと記憶しています。私は勉強は余り好きでなく、学校の成績も悪かったのですが、負けん気が強く、人が右といえば善し悪しは別として左だと云うような反撥心の強い性格であったように思います。 私はこのころ、ターザンの映画が好きでターザンの映画が来ると全部といってよい位、父にねだって見に行きましたが、ターザンの勇壮な処が好きでした。 小学校四年生の頃となると数学や理科などよりも社会科、特に歴史一般社会や国語が面白くなり、学校にあった図書などをよく読むようになりました。この頃から家に配達される新聞を読むようになったと記憶しています。 当時、アメリカ人や朝鮮人、中国人が巾をきかせていたので、これらの者を見ると「こんな連中が日本にきて威張っているとは怪しからん」と思いました。又、新聞や本などを見たり、人の話を聞くと共産党や社会党、労働組合などが「戦前の日本は悪かった」などと自分の国を卑下しているので「何故自分の国を悪く言わなければならないのか」とこれらのものに反撥を感じました。 新選組の本を読んだのもこの頃と思いますが、徳川幕府の恩を受けた多くの武士が時代の波にのって腰くだけになったのに、最後まで官軍と闘ったことなどを知って、悪いと云われる者の中にも、日本古来からある恩義を尊ぶと云うか、信義ある人が沢山いるんだ、と思うようになりました。又、社会党や共産党労組がストやデモをやって騒ぎ、「戦前の日本は悪かった」などと云っているので反撥を感じ、これらの悪い点を探すために書物や新聞などをよく読み、人から聞いて何となく「左翼は怪しからん」と思うようになりました。 次に西原小学校五年生の頃と思いますが、先生の引率で映画『やまびこ学校』を見に行ったことがありましたが、この映画は田舎の保守的な学校へ、左翼の進歩的な先生が赴任し、部落の人がこの先生を追い出そうとしたが、子供が先生の生き方は正しいと云って先生につき部落の人も次第に目醒めて、部落が民主的に改革されたと云ったもので、古いものは何でもいけないと云う共産党や社会党労働組合などの左翼の考え方と同じ内容のものでしたので「どうして先生はこんな共産党のような映画を見せるんだ」と思ったことがあります。 社会党、共産党、労働組合、新聞などは戦争中は軍隊が悪いとか、天皇が悪いなどと一言も触れないでいて、戦争が終って左翼的な社会になると、その頃の事を頬かむりして後になって自分の国を卑下することは全く怪しからん連中だと思い、戦前の日本にも「国を愛する気持ち信義を守ること、忠孝、家族制度」など非常に良いものがあり、この伝統は引継いでいかなくてはならないと考えました。 私がこのように共産党など左翼に対し常々怪しからんと思っていた処、昭和三十一年、和田中学校二年(十三歳)在学中、社会科担任の工藤先生が自由討論の時間にソ連をほめたので、私は「ソ連には自由がない」と反撥すると、先生は「ソ連にも自由がある、君は何も知らないんだ」と怒り私の意見を押えつけた事がありました。この先生は左翼的で教える事に納得できませんでした。 昭和三十二年、中学校三年(十四歳)の頃、担任の石田先生がデモに参加するため、一時間くらいで授業を打ち切ったので、先生が左翼のデモに行くとは怪しからんと思い「先生はどうしてデモに行くのか、生徒とデモとどちらが大事か」と云うと先生は怒ってしまい、何も云わずに戸をビシャンと締めて出て行ったことがありました。 山口二矢のデスマスク 辞世の句、2首。 国の為、神州男子晴れやかに ほほえみ行かん 死出の旅路に 大君に仕えまつれる若人は 今も昔も心変わらじ
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