|
平成18年11月5日(日):宇和島徳洲会病院、想定外の移植、真っ黒に近い濃灰色。 それでも、泣いて喜ぶレシピエントが存在するのも、また一方の事実。 1930年11月5日、岡山県倉敷市に大原美術館が開館しました。 大原美術館は、関西財界の重鎮と言われた大原孫三郎が巨万の富を惜し気もなく投じて設立 したもの。倉敷市の大原美術館を訪れる者は後を絶たない。(まさに、目利きの賜物。) ○ 大原美術館(本館/分館/工芸・東洋館/児島虎次郎記念館) 〒710-8575 岡山県倉敷市中央1-1-15 TEL 086-422-0005 FAX 086-427-3677 URL:http://www.ohara.or.jp E-MAIL: info@ohara.or.jp 大原美術館は倉敷を基盤に幅広く活躍した事業家・大原孫三郎が、前年死去した画家・児島 虎次郎を記念して昭和5年(1930年)に設立した、日本最初の西洋美術中心の私立美術館です。 日本美術のコレクターでもあった孫三郎は親しい友人・虎次郎の才能と、美術に対する真摯な 姿勢を高く評価し、三度にわたる渡欧をうながします。虎次郎は、そこで制作に励むかたわら 孫三郎の同意のもと日本人としての感覚を総動員してヨーロッパの美術作品を選び取るという 作業に没頭します。 明治の気骨を持つ虎次郎の選択は東洋の感覚と西洋美術の精華との真剣勝負でした。彼は、 エル・グレコ、ゴーギャン、モネ、マティスなど、今も大原美術館の中核をなす作品を丁寧に 選び、倉敷にもたらします。同時に進めた中国、エジプト美術の収集にも、東西の狭間で悩み つつ文化の源流に迫ろうとした虎次郎の心情が伺い知れます。 孫三郎の偉業は美術館だけではない。彼が創設した「大原社会問題研究所」は、日本の労働 運動研究の一大拠点となった。昭和に入ると“アカの巣窟”として、特高警察の捜査を受ける ようになるが、孫三郎は一貫して「金は出すが、口は出さない」という方針を変えなかった。 大金持ちの家に生まれ、若い頃は遊蕩三昧をしたが、その非に気づき、彼は変わってゆく。 父の跡を継いで倉敷紡績の社長に就任、情熱をかたむけて事業に励んだことはもちろんだが、 どうやったらその利益を社会に還元できるかを追求した。それが社会問題に取り組む発火点に なっていたのである。ほかにも倉敷労働科学研究所、大原農業研究所、倉紡中央病院など設立 それらは今日でも形や名前をかえて存在している。 「わしの眼は十年先が見える」が口癖だったという孫三郎。 未来を見通す彼の眼力は、十年どころではなさそうだ。 享年64。共靖院殿恣徳大観居士。誇るべき日本人。 ○ 典型的な放蕩息子だった、大原孫三郎 大原孫三郎は、明治13年(1880年)に岡山県倉敷市に大原孝四郎の三男として生まれた。 大原家は米穀・綿問屋として財をなし小作地800町歩(約800ha)小作人2,500余名を数える 倉敷一の富豪であった。明治を迎えて地元の殖産を託した倉敷紡績を設立するにあたり、 孝四郎は初代社長に就いていた。 大原家では二人の兄が夭折していたため孫三郎が跡継ぎであった。遅くに生まれ身体が弱い こともあって、わがまま放題に育てられた。長じて、旧藩校の閑谷黌に入ったが、勉強嫌いな うえに寄宿舎生活が肌にあわず飛び出してしまう。 【閑谷黌】しずたに‐こう 江戸時代の岡山藩の郷学(ごうがく)。寛文8年(1668)藩主・池田光政が民間子弟の教育の ために、領内各地に手習い所を設置したがまもなく廃絶し、同10年閑谷に学校設立を命じ、 元禄14年(1701)までに完成。明治になって廃絶したが、校舎の多くが現存する。 明治30年、東京専門学校(後の早稲田大学)に入学するも講義にはほとんど出ず、取り巻き に誘われるままに遊里通いの放埒な日々を送った。田舎の大金持ちのせがれと値踏みした高利 貸しがどんどん貸し込んだから、たちまち借金の元利が15,000円にのぼった。今なら億単位の 金である。さすがに大原家は姉婿の原邦三郎を始末に派遣したが、その最中に邦三郎が倒れて 急死してしまった。孫三郎は謹慎の身となり、孝四郎の実家である藤田家に預けられた。 だが、孫三郎とて遊んでばかりいたわけではなかった。足尾鉱毒問題では友人と現地を視察 したこともある。謹慎中、その友人から届けられた二宮尊徳の『報徳記』を熟読した際に、 「儲けの何割かを社会に還さねばならない」という言葉に感銘する。 決定的な転機となったのは石井十次との出会いであった。岡山の医学校を中退して医師を していた石井はクリスチャンでもあった。身寄りのない患者の遺児を預かったのを機に医師 をやめ、濃尾地震で被災した孤児を集めて岡山孤児院を創設した。その石井の講演を聞いて 孫三郎は激しい感動に包まれた。石井の事業を資金面から支えることになる。 石井は一時は1200人もの孤児を集め、孤児たちが自立できるように宮崎県茶臼原に大農場 を開いたりする理想主義者だったから、資金はいくらあっても足りない。それでも孫三郎は 「一言の小言をも云わずに助力せらる。頼むものも頼むもの、応ずるものも応ずるもの」と 石井が日記に書くほどの全面的な支援を続けたのだった。 石井は孫三郎にも日記をつけることを勧めた。孫三郎は、「余は余の天職のための財産を 与えられたのである。神のために遣い尽くすか、或いは財産を利用すべきものである」と 記した。放蕩の日々と、横死した義兄への贖罪の気持ちがあったのかも知れない。石井十次の 仕事は、今日、宮崎市の石井記念友愛社に引き継がれている。 石井は孫三郎に、結婚することも勧めた。1901年(明治34)、石井スエ(寿恵子)と結婚。 孫三郎21歳の時であった。1913年には、大原孫三郎夫妻の媒酌で、石井の長女・友子と児島 虎次郎とが結婚する。 ○ 児童福祉の先駆者である石井十次、三千人の孤児の“お父さん” 石井が初めて子供を預かったのは明治20年4月、22歳の時だった。慶応元年(1865)、 高鍋藩士・石井萬吉、乃婦子の長男として生まれた十次は、医師をめざして岡山県甲種 医学校に入学。学生の身ながら近くの大師堂に寝起きする貧しい人たちを毎朝見舞って いた。そこである女性遍路から頼まれ8歳の男児を預かったのが、それから生涯を貫く 「孤児の父」としての第一歩となる。(高鍋藩:秋月氏、宮崎県中部) 預かった子供はそれから時をおかず3人に増え、同年9月、岡山市門田屋敷の三友寺 の本堂を借り受けて「孤児教育会」の表札を掲げ、恵まれない児童の受け入れを始めた。 とはいえ、自らも若く貧しい医学生であり、十次が生涯を通じて直面する養育費の問題も この時から始まる。十次は入信していたキリスト教関係者からの寄付を募るために各地を 駆け回った。 ※ 以下、大原美術館の収蔵品から。 |

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用




