今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成18年11月9日(木)未明:共和党大敗受けイラク戦争の指揮官・ラムズフェルド長官辞任。
 同長官の更迭はイラク戦略の見直しを意味する。対テロ強硬路線の“崩壊の日”となるか。

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 1989年11月9日は【ベルリンの壁崩壊の日】です。


 ○ ベルリンの壁崩壊

 1989年11月9日に突如として東ドイツ政府が、東ドイツ市民に対して旅行の自由化(実際には旅行許可書発行の大幅な規制緩和)を発表した事により実質的に意味を持たなくなったベルリンの壁が、東西通行の自由に歓喜した東西ベルリン市民によって、ハンマー、建設機械などにより粉砕された事件。28年前に築かれ、東西対立の象徴としてドイツ民族を分断していた『ベルリンの壁』は事実上消滅した。翌年、東西ドイツが統一された。


 ○ 東ドイツの政情不安

 東ドイツ政府はハンガリーやポーランドで社会変革の動きが強まってからも、秘密警察を動員して国民の統制を強めていた。しかし1989年8月19日、ハンガリーで汎ヨーロッパ・ピクニックが成功すると、ベルリンの壁が持つ意味は低くなり、多くの東ドイツ市民が西ドイツへの亡命を求め、ハンガリーやチェコスロバキアに殺到した。また国内でも9月にはライプチヒで、10月には首都ベルリンでも民主化と、長期政権に居座るホーネッカーの退陣を求めるデモが活発化。東ドイツ政権は根底から揺さぶられる事になる。

 ホーネッカーにとって最後の頼みの綱は、ソ連からの支持を得る事であったが、東ドイツ建国40周年式典に参加するため、10月初頭に東ドイツを訪問したソビエト連邦共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフは、人民議会での演説で、先に発表した新ベオグラード宣言の内容を繰り返し、各国の自主路線を容認する発言をしたのみで、東独政府を支持する内容には言及しなかった。

 ホーネッカーはゴルバチョフによって見捨てられた形となり、ドイツ社会主義統一党内でも、ホーネッカーの求心力は急速に失われ、党内のホーネッカー下ろしに弾みが付けられた形となる。

 こうして国内外での混乱が拡大すると、10月18日ホーネッカーが党書記長を解任させられた。ホーネッカーの解任を受けてエゴン・クレンツが後任となったものの、もはや東ドイツの混乱は収拾が付かぬ状態に陥っており、後継政府も混乱するばかりであった。


 ○ 『ベルリンの壁崩壊』事件の経緯

 11月9日、「旅行自由化」の指令が東ドイツ政府首脳部に提案された。クレンツをはじめとする政府首脳部は、国内のデモや海外に流失する東ドイツ市民への対応に追われるばかりで、この提案は大した審議もされず、又、指令の内容を確認したかも怪しい状態で、政府首脳部の審議を通過。また、この指令の内容を発表する東ドイツ政府のスポークスマン、ギュンター・シャボウスキーも、内容をよく理解せぬまま記者会見を始めてしまう。記者会見場に詰め掛けたジャーナリストは当初半信半疑で、「この指令はいつから実行されるのか?」と言う質問にシャボウスキーが「この指令は即刻実施される」(実際には期日が決められていたが、シャボウスキーには伝えられていなかった)と断言したため、国境ゲート付近ではゲートを越えようとする市民と、指令を受け取っていない警備隊の間でトラブルが起きる。またマスコミにより「旅行が自由化される」の部分だけが強調されてしまった事も混乱に拍車を掛けた。

 この記者会見の模様は夕方のニュース番組において生中継で放送されたが、見ていた東西両ベルリン市民は(ベルリンでは東西双方がお互いのテレビ番組を視聴することが可能であった)半信半疑で壁周辺に集まりだした。一方、国境警備隊は指令を受け取っていないし、テレビも見ていなかったのでゲート付近ではちょっとしたいざこざが起きたが、これらは大きな混乱に発展する事なく、事態の悪化を恐れた東ドイツ政府が期日を無視してのゲート開放を決定し、東西ベルリンの国境は開放されることになった。

 本来の指令は、あくまでも旅行許可の規制緩和がその内容で、東ベルリンから西ベルリンに行くには正規の許可証が必要であったが、混乱の中で許可証などはどうでも良くなってしまい許可証など持たない東ドイツ市民は歓喜の中、大勢が西ベルリンに雪崩れ込んだ。

 1961年8月13日に建設が始まったベルリンの壁は、1989年11月9日の夜に、突如としてその役割を終える事になった。翌11月10日未明になると、どこからともなくハンマーや建築機械が持ち出され「ベルリン市民」はそれらで壁の破壊作業をはじめた。ちなみに壁は東側が建設し当然東側の所有物である。東側の誰も、「壁を壊していい」等と言う事は一切言っていない。しかし数日後には、正式に壁の撤去が始まり、東西通行の自由の便宜が計られるようになる。

 こうして、ひょんなことから長年、東西冷戦の象徴・越えられない物の象徴とされてきたベルリンの壁はあっという間にその役割を終えたのである。これは西ドイツ側でも誰も予想していなかった。事件当時、西ドイツ首相ヘルムート・コールは外遊先のポーランドにいたがニュースを聞いて慌ててベルリンへ向かったほどである。

 また東西ベルリンの境界だけでなく東ドイツと西ドイツの国境も開放された。西ドイツ市民から見ると、ひどく時代遅れに見えるトラバントに乗った東ドイツ市民が相次いで国境を越え西ドイツへ入って行った。西ドイツ市民は国境のゲート付近で彼らを拍手と歓声で迎え中には彼ら一人一人に花束をプレゼントする者まで現れた。東ドイツ市民が乗っていたトラバントはそれから暫く、東西ドイツ融合のシンボルとして扱われた。


 ○ 事件の影響 東西ドイツ統一

 ベルリンの壁崩壊はソ連、東欧を含めた世界中から祝辞を送られ、次の政治目標として、東西分裂以降ドイツ人にとって悲願となる東西ドイツ統一が設定され、その気運が高まったがソ連の指導者であったミハイル・ゴルバチョフはドイツ統一には時間がかかると思っていた。それよりも東ドイツがNATOにコミット(関与)される事を恐れていた。米大統領のブッシュも東西統一がそれほど早い時期に実現するとは考えていなかった。

 しかし東西ドイツの統一は両首脳が考えていたより遥かに早いスピードで進められた。
翌年、東ドイツにおいて最初で最後となる自由選挙が行われ、速やかに東西統一を求める
勢力が勝利すると、それまでの社会統一党政権が主張していた東西の対等な合併ではなく
西ドイツが東ドイツを吸収する方式で統一が果たされることに決定した。

 結局、ベルリンの壁崩壊から一年も経たない1990年10月3日、東西ドイツは正式に統一
されることになった。統一式典では、ベートーヴェンの交響曲第9番「合唱付き」が演奏
された。ドイツ国民が永年望んだ東西統一は、正に「歓喜」で迎えられた。

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 ベルリン・天使の詩(1987年)
 http://www.wim-wenders.net/movie/berlin.html

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あの壁が市民のハンマーで一撃を下された時、私は拍手喝采をしました。親兄弟の間ではなればなれになった家族もいましたし、恋人同士が住む場所の違いで会えないし、こうした理不尽がひょうたんからコマの状態であれ、解消できたことは嬉しい事でした。

2006/11/13(月) 午前 9:10 [ kaz*_51** ]


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