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平成18年11月14日(火) 教育基本法改正案:与党は強行採決も辞さず。 11月14日、醸造安全祈願祭 (大神神社 <おおみわ-じんじゃ>) 例年11月14日は、酒の神様、醸造の祖神と仰がれるご神徳を称えて、新酒の醸造安全祈願祭(酒まつり)が行われます。当日は灘・伏見を始め全国の酒醸家・杜氏・酒造関係者が参列。4人の巫女が、ゆかりの三輪山の杉を手に、神楽「うま酒みわの舞」を奉納します。 日 時 : 11月14日(火) 10:30〜 場 所 : 大神神社 交 通 : JR三輪駅より徒歩5分 桜井駅(JR・近鉄)よりバス「三輪明神参道口」下車 徒歩10分 西名阪自動車道 天理インターより車で20分 〒633-8538 奈良県桜井市三輪1422 大神神社 TEL 0744-42-6633 FAX 0744-42-0381 遠い神代の昔、大己貴神(おおなむちのかみ=大国主神に同じ)が、自らの幸魂(さきみたま)・奇魂(くしみたま)を三輪山にお鎮めになり、大物主神(おおものぬしのかみ)の御名をもってお祀りされたのが当神社のはじまり。それ故に、本殿は設けず拝殿の奥にある三ツ鳥居を通して、三輪山を拝するという、原初の神祀りの様が伝えられて おり、我が国最古の神社です。 大三輪之神(おおみわのかみ)として世に知られ、大神をおおみわと申し上げ、神様の中の大神様 として尊崇され、各時代を通じ、朝野の崇敬殊に篤く、延喜式内社・二十二社・官幣大社として最高の待遇に預かり、無比のご神格がうかがわれます。 この日より、御神木である三輪山の杉の葉で作られた「しるしの杉玉」、一名「酒ばやし」(直径約30センチ)が、全国の酒造家に広く授けられ、酒蔵の軒下につり下げられます。 また前日の午前9時には、拝殿向拝の大杉玉(直径1メートル60センチ、重さ150キロ)が、杉の緑あざやかな新しいものと取り替えられます。 社頭では、各醸造元より奉納の四斗樽が鏡開され、参拝者にふるまわれ、境内一円が酒の香りで満ち溢れます。但し、お車でのご参詣はご遠慮ください。 飛鳥寺跡で50年ぶりに礎石4基が出土、講堂の規模が判明 2006年11月 奈良文化財研究所は13日、わが国初の本格的な寺院、飛鳥寺跡(奈良県明日香村)で、講堂の柱を支えた巨大な礎石4基が出土したと発表。礎石は最大1.6メートルあり、仏教を受容した時代の寺院の実態を解明する上で重要な発見となる。造営したと伝えられる蘇我氏の権勢の大きさが改めて裏付けられた。 飛鳥寺は、飛鳥時代に権勢を振るった蘇我馬子(?〜626年)が廃仏派の物部守屋を滅ぼしたあと、仏教興隆を目的に、596年に完成させた。見つかった礎石は講堂の西南角にあたる場所で見つかった。花崗岩製で、土を突き固めた基壇に埋め込まれ、柱を据える上部は直径80センチの平面に加工されていた。 柱は直径60〜70センチと推定され、法隆寺金堂(7世紀後半)の柱の直径(約70センチ)と同規模で、当時としては極めて大きかったことがわかる。百済の工人の指導により建てられたとみられ、大化の改新(645年)後も官寺として優遇された。その後、火災などに見舞われ、江戸時代に現在の飛鳥寺(安居院)が再興された。 出土した礎石は講堂の南西隅の4個。3.85〜4.5メートル間隔でL字形に並んでいた。1956年〜1957年の調査で東西と北端で、礎石や礎石の痕跡が確認されている。今回の調査で南端が判明講堂の規模は東西35.15メートル、南北18.7メートルと確定した。 伽藍のうち、講堂は僧が集まって学修した場で、三つの金堂と塔の北に位置し、寺院内で最も大きい建物だったと考えられている。 飛鳥寺跡では1956年にも、講堂北側で礎石の一部が見つかっているが、今回の発掘で全容が判明した。50年前に同寺跡を調査した鈴木嘉吉・元奈良国立文化財研究所長(建築史)は、「当時は地上に建物があって深く掘れなかった。立派な礎石から改めて建物の威容を実感する」「僧への講義を重く見て、講堂に相応の格を持たせていた初期寺院の特徴が飛鳥寺にも表れており、大きな収穫だ」と話している。 ○ 物部守屋 (もののべのもりや 生年不詳〜587年) 敏達・用明朝の大連(おおむらじ、有力豪族)。物部尾輿の子。母は弓削氏の女阿佐姫。排仏を主張して蘇我馬子と対立。用明天皇の死後、穴穂部皇子を推したが、馬子らに攻められて敗死。『日本書紀』によれば、物部氏は有力な軍事氏族。物部氏は日本に伝来した仏教に対しては強硬な排仏派で、崇仏派の蘇我氏と対立した。 敏達天皇14年(585年)、病になった大臣・蘇我馬子は敏達天皇に奏上して仏法を信奉する許可を求めた。天皇はこれを許可したが、この頃から疫病が流行しだした。物部守屋と中臣勝海(なかとみのかつみ。中臣氏は神祇を祭る氏族)は蕃神(異国の神)を信奉したために疫病が起きたと奏上し、これの禁止を求めた。天皇は仏法を止めるよう詔した。守屋は自ら寺に赴き、胡床に座り、仏塔を破壊し、仏殿を焼き、仏像を海に投げ込ませ、馬子や司馬達等ら仏法信者を面罵し、3人の尼を捕らえて衣をはぎとり、鞭打った。 しかし、疫病は更にはげしくなり、天皇も病に伏した。馬子は自らの病が癒えず、再び仏法の許可を奏上した。天皇は馬子に限り許した。馬子は三尼を崇拝し、寺を営んだ。ほどなくして、天皇は崩御。殯宮(ひんきゅう。埋葬の時まで安置する御殿。もがりのみや)で葬儀が行われ、馬子は佩刀して誄言(しのびごと)を奉った。守屋は「猟箭(りょうせん。矢)がつきたった雀のようだ」と笑い、守屋が身を震わせて誄言を奉ると、馬子は「鈴をつければよく鳴るであろう」と笑った。 敏達天皇の次には馬子の推す用明天皇(欽明天皇の子、母は馬子の妹)が即位した。守屋は敏達天皇の異母弟・穴穂部皇子と結んだ。用明天皇元年(586年)、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の后)を犯そうと欲して殯宮に押し入ろうとしたが、三輪逆(みわのさかう。敏達天皇の寵臣)に阻まれた。怨んだ穴穂部皇子は守屋に命じて三輪逆を殺させた。馬子は「天下の乱は遠からず来るであろう」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知る事にあらず」と答えた。 用明天皇2年4月2日(587年)、用明天皇は病になり、三宝(仏法)を信奉したいと欲し、群臣に議するよう詔した。守屋と中臣勝海は「国神に背いて他神を敬うなど、聞いたことがない」と反対した。馬子は「詔を奉ずるべき」とし、穴穂部皇子に豊国法師をつれて来させた。守屋は睨みつけて大いに怒った。史(書記)の押坂部毛屎(おしさかべのけくそ)が守屋に群臣たちが守屋の帰路を断とうとしていると告げた。守屋は朝廷を去り、別業(別荘)のある阿都(河内国)へ退き、味方を募った。 排仏派の中臣勝海は彦人皇子と竹田皇子(馬子派の皇子)の像を作り呪詛した。しかし、やがて彦人皇子の邸へ行き帰服を誓った(自派に形勢不利と考えたとも、彦人皇子と馬子の関係が上手くいっておらず彦人皇子を擁した自派政権の確立を策したとも言われている)が、その帰路、舍人迹見赤檮が中臣勝海を斬殺する。 4月9日、用明天皇崩御。守屋は穴穂部皇子を皇位につけようと図ったが、6月7日、馬子は炊屋姫の詔を得て、穴穂部皇子の宮を包囲して誅殺した。翌日、宅部皇子を誅した。7月、馬子は群臣にはかり、守屋を滅ぼすことを決めた。馬子は泊瀬部皇子、竹田皇子、廐戸皇子などの皇子や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡(現・大阪府東大阪市衣摺)の守屋の館へ向かった。守屋は一族を集めて稲城を築き守りを固めた。その軍は強盛で、守屋は朴の木(えのき、榎)の枝間によじ登り雨のように矢を射かけた。皇子らの軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。これを見た廐戸皇子は仏法の加護を得ようと白膠の木(ぬるで、ウルシ科の落葉小高木)を切り、四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。馬子は軍を立て直して進軍させた。 迹見赤檮(とみのいちい)が大木に登っている守屋を射落として殺すと、寄せ手は攻めかかり、守屋の子らを殺し、守屋の軍は敗北して逃げ散った。守屋の一族は葦原(物部氏の領地)に逃げ込んで、ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。後に守屋の弟が召しだされて石上氏を名乗った。廐戸皇子は摂津国(大阪府大阪市天王寺区)に四天王寺を建立した。物部氏の領地と奴隷は両分され、半分は馬子のものになった。馬子の妻が守屋の妹であるので物部氏の相続権があると主張したためである。また、半分は四天王寺へ寄進された。 ※ 思えば仏教伝来が、物部守屋と蘇我馬子との権力闘争に油を注いだかたち。物部守屋を滅ぼした崇仏派の蘇我一族も、622年(推古30年)に聖徳太子が亡くなると、次第に専横をきわめ、645年、乙巳の変(いっしのへん)で蘇我入鹿が暗殺される。 |

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