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平成18年11月21日(火)昨夜:宮崎県議会、解散に恐れをなし、疑惑知事の追及尻すぼみ。 強気の知事、議会は腰砕け “談合”で不信任決議見送り 宮崎県の官製談合事件で、安藤忠恕(ただひろ)知事(65)への不信任決議案提出を決めていた同県議会は20日夜、これまでの方針を転換し、当面辞職を求める動きをしないことを決めた。 関係者は「不信任決議が可決された場合は議会解散もあり得る」などと発言。坂元議長は、「解散を懸念する議員がいることは否定できない」と、「トーンダウンした」内情を吐露。 坂元議長は同日昼、「このまま粛々と22日の県議会初日を迎えることは県民の理解が得られない」としていたが、全員協議会後は「知事がすべての疑惑を否定したことで、責任の追及は困難との声が多かった。 宮崎談合、土木部長の供述は「ある人から指示…」、県警は“ある人”の特定を急ぐ 宮崎県発注の橋梁設計業務を巡る官製談合事件で、県土木部長・藤本坦(ひろし)容疑者(59)(競売入札妨害容疑で逮捕)が県警の調べに対し、「ある人から指示され、ヤマト設計に仕事を取らせるよう部下に言った」と供述していることが20日、わかった。「ある人」が藤本部長より下位であることはあるまい。 ※ 全員協議会を設定したのは、「武士の情け」だから、速やかに県知事は辞職すべしと、言っていた勢いはシャボン玉のようにはじけてしまったのか。宮崎県議には『武士の一分』はないようだ。それにしても相も変わらぬニッポンの風景ではある。道路、トンネル、橋。悪の枢軸とでも申しましょうか。要は、我ら有権者の倫理が紙のように薄っぺらだと言うこと。 1978年11月21日、巨人が野球協約の盲点をつき、江川卓と契約した日。 世に言う“空白の一日”騒動の発端。江川に生涯つきまとうマイナスイメージ。 セントラル・リーグはこの契約を無効とし、翌年のドラフトで交渉権を得た阪神に入団。だが、すぐに小林繁投手とのトレードで、江川はジャイアンツに入団すると言う、変則的な形を取ったため、江川には以後、ダーティーなイメージが定着。江川事件から巨人ファンを辞めて阪神ファンになった人も数多く居る。 ○ 江川問題(空白の一日事件)江川卓と球界の盟主・巨人との不名誉な出発点 作新学院の江川といえば、ノーヒットノーラン高校通算12回という怪物。少年時代の江川は高校で甲子園、大学で早慶戦、プロで巨人というライフプランを持っていた。常に計画を描きながら生きてきた江川が、人生最初のミスを犯す。 関係者の甘い意見に従って慶応大学を受験し、見事に失敗。早稲田の体育推薦なら、江川の学力でも合格間違い無しだったのだが、ゲタをはかせると言う甘〜い誘惑に乗って慶応を受験したもの。そして彼の周りには常に「関係者」なる者が存在し、常に甘い誘いに乗ってしまう江川クンであった。受験失敗後は、「せめて六大学へ」と、法政大学に入学した。 ドラフト指名で、指名権を得たのは在京でもセ・リーグでもない福岡のクラウンライター・ライオンズだった。江川は、「九州は遠すぎる」と言って入団拒否。東京にはスチュワーデス(現・客室アテンダント)の彼女がいたのだ。クラウン球団代表は、かつて阪神にて敏腕ぶりを発揮した青木一三。球界の策士・青木は、闇雲に入団の可能性がない江川を指名したわけではなかった。 江川入団後に即、巨人とトレードを行うという青写真を描いていた。青木は長嶋監督が学生だった頃からの旧知の仲であり、江川卓と西本聖との交換トレードが成立するとの、筋書きがあった。しかし、不人気球団のクラウン首脳陣は、せっかく指名できた江川の入団を熱望し、入団をせかせる交渉を行ったために拒否される。そして、江川が拒否した背景には、彼の周囲に「関係者」が多数いた事も一因だった。 江川の「関係者」と巨人軍首脳との間で、江川入団への作戦はすでに出来ていた。ドラフトで指名した球団の選手への優先交渉権は1年間であるが、実際には翌年のドラフト会議の2日前までであった。巨人軍はドラフト会議の前日は、前年のドラフトに関係なく自由にドラフト外で交渉契約ができると主張して、江川と契約した。「空白の一日」である。巨人はドラフト前日に江川と入団契約を済ませて、入団発表を行った。 「空白の一日」は、翌日のドラフト会議に備えるための日なので、当然の事ながら野球連盟及び世論は、読売グループと江川に猛反発した。意地になった読売は江川入団の正当性を訴え翌日のドラフト会議をボイコット。江川自身は後々、「まわりにまかせていたらこうなった」と語って自己弁護するが、慶応大受験・渡米など、事ある毎に常に黒い「関係者」たちに乗せられてきた江川自身の生き方の問題が、すべての騒動の温床であろう。 翌日のドラフト会議を前に、アンチ巨人の筆頭格であった安藤統男(もとお)阪神コーチは岡崎球団代表に江川指名を具申、岡崎は小津球団社長の下に走る。社長に、「巨人の横暴は許せない、阪神は江川を指名したい」との意見を申し出る。球団再建を託されて新入団した小津社長の考えも一致していた。 タイガースにどうしても必要な戦力は、即戦力の投手・外野手だった。入団の可能性の殆どない江川を指名する事は、意地であり大きな賭けだった。だが、ドラフト会議当日、阪神以外にも南海・ロッテ・近鉄の3球団が意地の指名を行った。内心は、指名したどの球団も当たりくじを引いてしまわないか、びびっていたと言う。指名をする事で意地を見せたかったのだが当りを引いた時の混乱も予想できた。 当たり籤を引いたのは、タイガース・岡崎代表だった。岡崎代表は体に震えが来たと言う。入団交渉は予想通りに難航。阪神入団を拒否する江川に、くだらない意地をはる巨人軍。 巨人ファンだった金子コミッショナーが「阪神入団後、巨人へトレード」とする裁定を下した事で、ようやく巨人も拳を降ろす言い訳ができた。あとは江川の交換要員。最初に巨人から提示されたのは、クラウンの時に話をまとめかけていた西本聖だったが、阪神サイドが難色を示し、「プラス野手1名なら」という要求で跳ね返した。巨人側は新人の江川に2名の放出を行う事に難色を示し、2年連続18勝の実績を残していたエース格の小林繁との交換で折り合いが付いた。決定はキャンプインの前日だった。小林はキャンプに向かうその脚で空港から球団事務所に向かった。小林繁、人生最大の屈辱の日、となることも知らずに。 小林はその年22勝を上げ、沢村賞を獲得。巨人相手には負けなしだった。江川は2ケ月出場停止処分の末、6月に甲子園球場で阪神タイガースと初対決した。スタントンの本塁打1本に抑えられていたタイガースだったが、7回にラインバックが起死回生の逆転スリーランを叩き込み、江川にプロの恐さを教えたのだった。 ダーティーな江川に対して、小林には悲劇のヒーローのイメージが出来上がる。 ※ 野球の江川卓(えがわ すぐる)氏と同姓“同字”のロシア文学者がおられました。こちらは、江川卓(えがわ たく)氏とお読み致します。2001年7月4日に逝去されました。ドストエフスキーの翻訳・研究などで知られる。本名は馬場宏で、江川卓は、ロシア文学=共産主義者と疑われていたような時代に、世を憚る名前だった。地下の文学サークル時代のペンネームをそのまま戦後も用いたもの。江川卓って、闇のイメージなのかな。 野球の江川卓氏とワインって、似合わないと思う。それ以上に、ドストエフスキーは絶対に似合わない、似合って欲しくない。江川卓氏に似合うもの、それは野球解説だ。氏の過不足ないコメントは、野球好きを納得させるものがある。マラソンの増田明美と双璧をなす名解説者と言える。江川卓氏の生涯成績:135勝72敗3セーブ 勝率.652。 「解同」系法人にヤミ補助金、大阪市の疑惑 大阪市が部落解放同盟系の社会福祉法人などに、予算にも計上されない謂わば“ヤミ補助金”を支給していた疑惑が、20日の大阪市議会決算特別委員会で明らかになりました。
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