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平成18年11月28日(火)昨日:小沢代表「自民党はその場その場で何でもありの政党」と強調。 国民新党綿貫代表は「私にも我が党にも関係ないこと」「郵政民営化は天下の一大事と言ってやったが、本当にそうだったのか。後世の人が批判するのではないか」と語った。 自民、落選組の一部は年内にも復党… 現職11人は内定 郵政民営化に反対して自民党を離党した「造反組」の無所属衆院議員12人のうち、平沼赳夫を除く11人の復党を認めることを内定した。今週中にも党紀委員会を開き、復党を正式決定する。 今回の復党に対して、有権者から賛否両論が出ることが予想され、今後の安倍首相の政権運営などに影響を与える可能性もある。(特に無党派層の支持を失うだろう。) 11人が提出した誓約書には、中川幹事長が当初から示していた復党の条件に沿って、 1 離党勧告処分の対象となった行為は遺憾 2 安倍首相の所信表明演説を全面支持する 3 郵政民営化を含む政権公約の実現に邁進する、の他に さらに、「誓約に違反した場合、議員辞職する」の一項も盛り込まれた。 ※ 事実上、去勢された形である。それでも復党する11人とは、一体なんなのか? 家康に利用された小早川秀秋は、どこまでも寝返り者だった。評価の高いはずがない。 1882年(明治15)11月28日、福島事件が起きました。 明治政府による、自由民権運動弾圧事件で、旧・会津藩への圧政。 県令・三島通庸(みちつね)による、福島自由党員・農民への弾圧事件。 民権運動弾圧を期して着任した薩摩閥の三島は、会津三方(さんぽう)道路開設を農民に強制。自由党・河野広中を議長とし、民権派が過半数を占める福島県会はこれに反対、5月に全議案を否決。6月、三島は工事の代夫賃徴収を開始。7月、会津地方の農民は自由党員・宇田成一らの指導で抵抗運動を開始した。 11月、宇田らの逮捕を機に、11月28日、農民数千人が弾正ヶ原に集合して気勢を上げ、喜多方署に押し寄せ、宇田らの釈放を要求。抜刀した警察官に襲われた農民に負傷者がでた。翌朝から三島県令は県下の民権家に対し、大弾圧を開始。約2000人が検挙され、河野ら自由党首脳は政府転覆陰謀ありとし国事犯に処せられた。その後、自由民権運動に、テロにより弾圧に対抗しようとする傾向が生まれ、2年後に加波山事件が起こった。 一連の事件には、明治維新にいたる薩長閥と会津藩との確執が横たわる。 福島県は、自由民権運動の一大拠点であり、新政府への反発は非常に強かった。 会津藩は、現在の福島県西部を治めた藩。藩庁は会津若松城(会津若松市)。最後の藩主たる九代・松平容保(かたもり)は幕末に京都守護職となり、更に新撰組を配下に置いて京都の治安を担った。そして禁門の変では孝明天皇を奪取しようとした長州藩勢から御所を守り抜いた。後に容保は、会津を頼りとしている旨が記された「御宸翰(ごしんん)」を孝明天皇より賜った。 しかし慶応2年12月(1867年1月)に孝明天皇が病死(謀殺説もある))すると、会津藩と薩摩藩・長州藩との対立が先鋭化。大政奉還、王政復古を経て、慶応4年(1868年)鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発。 会津藩は旧幕府勢力の中心と見なされ、薩摩藩・長州藩を中心とする新政府軍の標的となる。会津藩は奥羽越列藩同盟を締結するなどして新政府軍に抵抗したが、会津若松城下での戦い(=会津戦争)に敗れ降伏。会津藩領は会津松平家から没収。藩主・容保は鳥取藩預かりの禁錮刑となった。 明治2年(1869年)容保の嫡男・容大(かたはる)は家名存続が許され、遠く離れた陸奥国斗南(青森県むつ市)に斗南藩(となみ、下北半島の異称)を立藩。一方で、会津は廃藩置県を前に明治政府民政局による直轄地となりその後、若松県とされ、さらに福島県に併合される。 会津では今日でも、敵である長州や薩摩への反感を持つ者が少なくないという。会津戦争の際、戦没者の埋葬を中々許可せず、長期間戦没者の遺体を放置させるといった、薩長土肥の側の過酷な弾圧が続いた。その後、死者に対する冒涜に憤った者等による、新政府役人暗殺事件も起きています。
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