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○ 沢庵宗彭(たくあん そうほう 1573〜1645) 臨済宗の僧 山名宗詮(やまなむねあき)の家臣、秋葉能登守綱典の子としてうまれる。10才で浄土宗の 唱念寺に弟子入り春翁と称したが天正14年、14歳の時、同じ出石の禅宗の宗鏡寺(すきょうじ) の希先西堂(きせんさいどう)の弟子となり名を秀喜(しゅうき)と改めた。 宗鏡寺(沢庵寺) 所在地 兵庫県豊岡市出石町東條33 19歳の時、希先和尚が遷化し、京の大徳寺から董甫宗仲(きんぽそうちゅう)和尚が来寺し その指導を受けた。文禄3年に董甫和尚が大徳寺へ戻るため、共に上京(21歳)大徳寺の三玄院 で、董甫の師・春屋宗園(しゅんおくそうえん)に参じ、春屋から宗彭の名を授けられた。 沢庵は大徳寺で7年間、春屋のもとで修行を積み、慶長5年(1600)28才の時、一応の修行 を終える。しかし、沢庵に対して、大徳寺禅の精神を開眼させたのは大徳寺開山・宗峰妙超の (しゅうほうみょうちょう)遺志を守り、権門に媚びず、超然として参禅求道に生き通した董甫 であった。董甫宗仲との出会いが、権力に迎合しない彼の生涯を決定したと言われる。 諸大名に接近して贅沢な衣食に甘んずる春屋に対しては沢庵は好感をもたず、慶長6年に、 董甫が亡くなると沢庵は春屋の元を離れる。儒学、詩文等の教養を修めるべく、堺の大安寺に いた建仁寺派の学僧・文西和尚に従い修行し、堺の南宗寺の一凍紹滴(いっとうしょうてき) 和尚に従い更に禅道を極め、ついに大悟して紹滴から印可証明を得て、『沢庵』の号を授けら れた。時に32歳、慶長9年(1605)のことであった。 1607年に若くして大徳寺の首座に選ばれますが、「空理空論に走る大徳寺の仏法は今の世に 用に立ち申さず」といってわずか3日で堺に帰ってしまう。その後も権勢を離れて修行する事 を望んだ彼は、豊臣秀頼など多くの大名からの招聘を受けることなく、故郷・出石の藩主小出 吉英の援助で宗鏡寺を再興し、その裏山に小さな庵を建て、隠遁生活を送った。 紫衣事件という名の、宗派対立と江戸幕府の政策 沢庵は慶長14年(1609)、後陽成天皇の命により大徳寺の住持となり、紫衣(しえ)をまとう。 紫衣は大徳寺と妙心寺だけに認められていた恩典で、京五山(天龍、相国、建仁、東福、万寿) 等には許されていなかった。これが後に、紫衣事件として大問題に発展する。 寛永4年(1627)7月、幕府が僧侶の出世の制を定めて、かつ家康が元和元年(1615)に定めた 寺院法度を大徳寺、妙心寺に厳しく適用して、大徳寺住持の正隠宗智が、後水尾天皇から勅賜 された紫衣を剥奪し、元和以来、紫衣を勅賜された大徳寺15人の住持をも法度違反の廉で処罰 するに到る。 この事件の遠因は、同じ臨済宗派禅林でありながら、京五山派と大徳寺派との対立。とくに 五山の別格上位に列せられている南禅寺の金地院崇伝(こんちいんすうでん)は家康の信頼を 得ており、他の禅刹よりも寺格が高く、朝廷からも特別扱いされている大徳寺と妙心寺をも、 幕府の支配監督の下に置こうとする幕府の宗教政策の要請を実行してゆく。 そもそも寺院法度は、家康の政治顧問であり黒衣の宰相と言われた金地院崇伝の立案による ものであった。故に崇伝に対する各宗門の反感は大きかった。崇伝は五山派に属していたので 大徳寺派 vs 五山派の勢力争いとも見られるが、家康は宗教統制をし、教団の支配権を骨抜き にして、幕府の支配下に置こうとした。それは朝廷の紫衣勅賜の権威を奪うものでもあった。 家康の尊敬する人物は頼朝であり、その頼朝は、幕府の認可なしに朝廷より官位を賜ることを 厳に禁じた。鎌倉幕府の法度を破った咎で義経は断ぜられ、江戸幕府の寺院法度を破った咎で 沢庵らは処罰された。 この問題に対して沢庵は玉室宗珀、江月完玩とともに連署して幕府に強く抗弁した。その為 幕府の怒りに触れ、江戸に呼びだされ訊問される。沢庵は各条にわたり法度の内容について、 その不当性を主張した。幕府は藤堂高虎、金地院崇伝、南光坊天海らと沢庵らの処分について 協議。 崇伝は厳罰遠島を主張し、天海は寛大な処罰にすべしと主張したが、ついに「権現様の法度 に対して意義を申し立て候とは公儀をはばからざる不届の儀」として寛永6年7月25日付流罪 と決まった。3人の内、江月だけは事情があって許され、玉室宗珀は陸奥国棚倉の内藤信照に、 沢庵は出羽国上の山の土岐山城守頼行にあずけられる事になった。 沢庵をあずかるように幕府から命じられた山城守頼行は沢庵を大歓迎した。山城守は元来、 武芸熱心で沢庵が上の山に到着すると城外松山に沢庵の庵を営んで住まわせ、いたれりつくせ りの厚遇をする。沢庵はこの庵を「春雨庵」と名づけた。山城守は度々ここを訪ね、沢庵から 兵法の妙諦を禅の心法によって開眼し、自得記流槍術の開祖となった。また山城守の槍の師で 山形にいた鳥居家の家臣、松本定好も上の山にしばしば足を運び、沢庵に参禅して槍術の極意 を悟り、一旨流を起こした。 5年後ゆるされて故郷に戻った彼は、更に3年後、時の将軍徳川家光の招きに応じて江戸に 下りました。詩歌、書画、茶道、武道の知識が深く、人柄も優れていた沢庵に将軍は感じ入り、 品川に東海寺を建立して、沢庵に与えています。その後、沢庵が遷化するまでの7年間に家光 は75回も東海寺を訪れて、沢庵の教えを受けたそうです。 清貧を喜び、権力に屈することなく生涯を送った彼は1645年、東海寺で往生を遂げました。 時に73歳。死に際し、乞われて筆をとった沢庵は、「夢」一字を書いた後、筆を擲って絶命。 ある時、東海寺を訪ねた家光に、沢庵が「禅刹何も珍物これなく、たくあえ漬香の物あり」 と当時で言う「貯え漬」を献上すると、「貯え漬にてはなし。沢庵漬けなり」と家光の上意。 これより、「貯え漬」が「沢庵漬」と呼ばれるようになったとか。 武蔵(たけぞう)に武蔵(むさし)と名づけた沢庵和尚。同時代人ではあるけれど、実際には
全く接点のない二人。吉川英治の虚構が見せる一風情。 |

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はじめまして鳥居元忠ファンのMASATOと申します。 >山形にいた鳥居家の家臣、松本定好も上の山にしばしば足を運び、沢庵に参禅して槍術の極意を悟り、一旨流を起こした。 このことは始めて知りました。鳥居家が最後に藩主を務めた栃木の壬生にも松本家の大きな屋敷が今でも残っていますが、この方のご子孫でしょうか。 鳥居元忠と鳥居家のHPを立ち上げましたのでよろしかったらご覧になって見て下さい。 http://www.h7.dion.ne.jp/~history/index.html
2006/12/2(土) 午後 4:21 [ his**sa ]