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12月3日は、山頭火の誕生日です。 ◇ 種田山頭火(さんとうか 1882〜1940 本名:種田正一) 山口県防府市で、大種田と呼ばれるほどの大地主の長男として生まれる。父親は村助役まで務めたが素行宜しからず、彼が10歳の時、父が愛人の女性と旅行中に、母が井戸へ身を投げて自殺してしまい、不幸にもその死体を目撃しています。36歳の時には、他家へ養子に出されていた弟が郷里近くの山中で縊死している。 早稲田文学部に入学するものの、神経衰弱のため中退。帰郷して父の酒造業を手伝いながら療養。28歳の時に結婚し子供もなす。この頃、荻原井泉水に師事し、自由律俳句誌「層雲」に出句する。 しかし、父の放蕩、そして自身の酒癖、自堕落から破産。彼は妻子を連れて熊本に移り、商売を始めるが失敗、妻とも離婚、心機一転東京に出る。東京でも職を転々として、関東大震災に遭遇する。行き場を失った彼は、熊本の元妻の所に転がり込む。 自殺未遂で報恩寺の望月義庵和尚に諭されて寺男となり、大正14年に得度、耕畝(こうほ)と名乗る。雲水となり破れ笠、えごの木の杖、鉄鉢を手に各地を行脚する。酒と放浪の日々を、禅味あふれる独自の句に残す。 自殺未遂の際の顛末とは…。 大正13年、酒癖が嵩じて、熊本市内で電車の前に仁王立ちする事件を起こす。電車は急停車して事なきを得たが、ひとりが彼の腕をつかんで報恩禅寺へ引き連れた。義庵和尚に師事した山頭火は翌大正14年2月出家する。妻子を捨てた身勝手な自身の振る舞いは、終生の負い目となり山頭火の作風に影響を与えた。山頭火の句に禅問答に似た雰囲気が漂うことがあるのは、禅僧・種田耕畝の片鱗ゆえか。 放浪生活のなかで、三度、庵を結ぶ。三度目の庵となった松山の「一草庵」で、隣室の句会の最中に脳溢血を起こす。昭和15年10月11日に逝去。享年58。解脱院山頭耕畝上座。その生涯に詠んだ句84.000句とも云う。熊本市安国寺境内に眠る。 山頭火の人生は、迷いと苦悩の中に遊戯(ゆげ)するものだった。酒に溺れながらも、その人となりから、多くの支援者を得て、周囲に迷惑を掛け続けながらも、決して嫌われることはなかった。その漂泊の生涯は、人々の心をとらえて止まず、戦後40年の間に50基を超える句碑が建立されている。 歩かない日はさみしい 呑まない日はさみしい 作らない日はさみしい ひとりでゐることはさみしいけれど ひとりであるき、ひとりで呑み ひとりで作ってゐることはさみしくない。 分け入っても分け入っても青い山 夕焼うつくしく今日一日つつましく 旅の子はひとりでメンコ打つてゐる おちついて死ねそうな草萠ゆる どうしやうもないわたしが歩いてゐる 死ぬときも 夢酔のうちぞ 山頭火 屋上土(丙戌)
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