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平成18年12月19日(火)昨日:一般会計82兆9千億円、2年ぶり増加、財務省原案。 1910年12月19日、徳川好敏陸軍大尉が日本初の公式飛行実験を行う。 12月19日は東京・代々木練兵場で日本最初の飛行実験が開始された日。 といっても5日後にやっと離陸に成功、飛行時間は4分、高度70m、飛行距離 3000mという飛行記録だった。その7年前の1903年にはライト兄弟の人類初の 動力飛行が成功していましたが、距離およそ250m、時速16km程度と言う鳥人間 コンテスト並の記録でした。そして更にその3年前の1900年にはツェッペリン 伯爵が飛行船の発明に成功しています。当時、飛行船の完成度が遥かに高く、 以後40年近く飛行船が空の主役の座に居座り続けます。しかし、1937年の事故 をきっかけに空の輸送手段としての地位は一変します。ツェッペリン型の大型 豪華飛行客船ヒンデンブルグ号が、水素ガスの爆発火災で35名の死亡者を出す 大惨事を引き起こしました。この事故はタイタニック号と並ぶ衝撃的な悲劇と して知られます。そのヒンデンブルグ号の全長は246.7メートルだった。 ○ 徳川好敏(よしとし・1884〜1963) 旧御三卿・清水家の当主、男爵。陸軍軍人、航空機操縦士。 父は伯爵を叙爵されたが、のちに返上。好敏は陸軍に入り、気球部隊、航空 部隊に勤務。ヨーロッパで操縦術を勉強して帰国。明治43年(1910)代々木 練兵場で「アンリ=ファルマン」機に乗り、高度70メートルで、距離3千m 時間4分間を飛行。国内初飛行に成功した。 以後、陸軍の飛行学校教官、明野・所沢両飛行学校校長、飛行第一連隊長 航空兵団長、陸軍中将などの要職を歴任。昭和初年、男爵に叙爵される。 予備役編入後、太平洋戦争の戦局悪化に伴い召集され、新設された航空士官 学校校長に就任した。名実共に我が国航空界のパイオニアで、敗戦後も日本 操縦士協会会長などの要職にあった。 ※ 御三卿(ごさんきょう) 御三卿は、江戸時代中期に分立した徳川氏の一族で、徳川将軍家に後嗣なき とき将軍の後継者を提供する役割を負った三家系のこと。 田安徳川家(田安家)…始祖は徳川宗武(8代将軍徳川吉宗の次男) 一橋徳川家(一橋家)…始祖は徳川宗尹(8代将軍徳川吉宗の四男) 清水徳川家(清水家)…始祖は徳川重好(9代将軍徳川家重の次男) 家格は御三家に次ぐ。姓は徳川であり、田安・一橋・清水の名称は、 それぞれの屋敷地が所在する城門の名称に由来している。吉宗が御三卿 を創設した意図は、従来将軍家(徳川宗家)の後嗣を出す役割を担って きた徳川御三家と将軍家との血縁関係が次第に疎遠になったことを鑑み 御三家とは別個の親族を将軍家の新たな藩屏(はんぺい=組織を守るもの) とすることにあった。それ以後、将軍家に後嗣がないときは御三家および 御三卿から選定される事となる。 1910年(明治43)に、徳川好敏がアンリ・ファルマン機で、続いて日野熊蔵が グラーデ機で日本人としてはじめて飛行し、翌年には、奈良原三次(さんじ)が 初の国産飛行機・奈良原式2号の飛行に成功しました。 1903年のライト兄弟の人類初の動力飛行の前は、オットー・リリエンタール がグライダー飛行を成功させています。しかし、それよりも更に百年以上も前 に、浮田幸吉なる人物がグライダー飛行に挑み、それなりの成果を見たと伝え られています。 ○ 浮田幸吉(1757〜不詳) これが日本で初めての飛行と言われています。すぐさま落下しましたが、目撃した人々は、「鳥人が空から降りてきた」「白い羽をつけた天狗が空高く飛びまわった」等大騒ぎとなる。 その後、「奇行をもって衆人を騒がせた」という咎で受牢されましたが、藩主・池田治政の温情により所払いとなる。静岡に移り住んでから「備前屋幸吉」の屋号で備前児島の木綿を扱う店を開き、平穏な余生を送ったと伝えられています。 ドイツ人のオットー・リリエンタールが同じような飛行装置で、初飛行に成功していますが、その初飛行より百年以上も前に、幸吉は飛行を成し遂げたと伝えられています。とは言うものの、幸吉のような変わり者は世界のあちこちに居たようで、幸吉だけの手柄では全然ないようです。 ○ オットー・リリエンタール(ドイツ・1848-1896) 飛行実験のパイオニアとなったドイツの技術者で飛行研究家。1881年から グライダーを製作して飛行実験を繰り返し、総数2000回。そのグライダーは 体重を移動してバランスを保つ方法でコントロールしていました。リリエン タールは翼のキャンバーの効果を立証したことでも有名で、1886年には動力 機関による飛行も計画されていましたが、その前にグライダーで墜落死して しまいました。ライト兄弟に最も影響を与えたのがリリエンタールである事 は間違いないと思われます。リリエンタールの墜死事故のニュースがライト 兄弟を刺激し、飛行機の開発に踏み切らせたと言われています。またライト 兄弟は、フライヤーの製作、実験にあたって、リリエンタールの飛行データ を参考にしており、リリエンタールの存在が無ければ、ライト兄弟の成功も なかったのではないかと思われます。 ※ ジェット旅客機が飛び交う今日、人はなお人力飛行に何がしかの夢をみる。 幼児期には、よく飛ぶ夢をみた。そして、飛ぶ夢は堕ちる夢でもあった。今夜こそ 堕ちないぞと、意気込んで布団に入っても、やっぱり堕ちた。私は、地面すれすれ まで頑張って何とか再び浮上しようと試みたが、やっぱり堕ちた。夢の中で何度も 鼻の頭を擦り剥いて、空しく眼が覚めたものだった。 後年、寺山修司が人力飛行機舎なるプロダクションを立ち上げ、ATGとの提携 で映画作品を発表した時、寺山の世界に強烈に魅かれたものだった。「書を捨てよ 町へ出よう」、「田園に死す」。特に「田園に死す」は寺山の美意識に身震いする ほどの感銘を受けた。 |

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