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平成19年1月18日(木)昨日:病気療養中の河合隼雄・文化庁長官が退職。 昨年8月、奈良の自宅で倒れ入院中だった。今月14日に発表された 「日本の歌百選」が河合隼雄氏の置き土産となった。 1月18日は、「明暦の大火」の日です。 1657年1月18日、「明暦の大火」が発生、死者10万人以上とも。 1657年(明暦3年)に江戸城天守閣と市街のほとんどを焼失した「明暦の大火」が起きた日。 現在の文京区本郷・本妙寺より出火したとされる。この火事から幕府が消防組織を発足させる。 明暦3年1月18日から1月20日にかけて、当時の江戸の大半を焼失するに至った大火災。振袖火事・丸山火事とも呼ばれる。延焼面積・死者ともに江戸時代最大で、江戸の三大火の筆頭とされる。外堀以内のほぼ全域、天守閣を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失、諸説まちまちだが、死者は3万から10万人と記録される。江戸城天守はこれ以降、再建されることはなかった。(主に防災の観点から、火の粉を受けぬため) 火災としては、東京大空襲、関東大震災などの戦禍・震災を除けば、日本史上最大のものであった。ロンドン大火、ローマ大火と並ぶ世界三大大火の一つに数えられることもある。 江戸城天守閣を焼失した「明暦の大火」 丸山火事とも言われる。1657年(明暦3年)江戸本郷丸山町から出火、江戸城本丸をはじめ江戸市中を焼き尽くした大火。死者10万人以上といわれ江戸城も西丸を残して焼失。 幕府は復興に際し、御三家をはじめとする大名屋敷の城外への移転、寺社の外辺部への移転などを進め、町屋も道幅を広げ、広小路や火除け地を設定、家屋の規模を定めるなどの措置をとった。 翌1658年には、定火消を置いている。 「振袖火事」の名の由来となった丸山町本妙寺の和尚が因縁のある振袖を燃やした火が同寺本堂に移り大火となったという話は,史実ではなかった。 【火除け地】江戸時代、江戸において火事の延焼を防ぐため、また、避難所 として設けた空き地。特に享保期(1716〜1736)に多く設定された。 ◇ いわく因縁てんこもりの「振袖火事」? 麻布の質屋の娘・梅乃は寺小姓に一目惚れし、その小姓が着ていた服と同じ柄の振袖を作らせて愛用していましたが、遂にはこがれ死にしてしまう。両親は殊のほか憐れんで、娘の棺にその振袖を着せてやりました。当時は、こういう棺に掛けられた服とか仏が身につけている簪などは、大抵の場合、棺が持ち込まれた寺の湯灌場で働く者たちがもらっていいことになっていました。 この振袖も、そういう男たちの手に渡り、いいものに思えたので古物商に売られ、回り回って別の娘の所有するところとなりました。 ところが、その娘もこの振袖を愛用していて、しばらくの後に亡くなったため、またも棺にかけられて寺に持ち込まれることになりました。寺の湯灌場の男たちも驚くが、またそれを売り飛ばし、また別の娘の手に渡りました。 ところが、その娘もほどなく死んでしまい、またまた棺に掛けられて寺に運び込まれてきたのです。この度は流石に湯灌場の男たちも気味悪がり、寺の住職に相談する事に … 。 死んだ娘達の親も呼び出されて皆で相談の結果、この振袖には何かあるかも知れないということで、寺で供養することになった。時に明暦3年1月18日午前十時。寺は本郷丸山本妙寺。住職の読経の中、振袖は火中に投ぜられました … 。 ところが、折しも一陣の強風が吹き荒れて、その振袖は火がついたまま空に舞い上がりました。振袖は本堂の屋根に落ち屋根に火が燃え移ります。おりも折り、江戸の町はその日まで80日間も雨が降っていませんでした。 この屋根に燃え移った火は消し止める間もなく次々と延焼、湯島から神田明神、駿河台の武家屋敷、八丁堀から霊岸寺、鉄砲州から石川島と燃え広がり日本橋・伝馬町まで焼き尽くしました。火は翌日には北の丸の大名屋敷を焼いて、本丸天守閣まで焼失することになりました。この火事で亡くなった人は10万人以上とも伝わる。 世に「振袖火事」の異名を持つ「明暦の大火」の因縁話で御座います。 この因縁話には、さまざまなる伝承がまことしやかに語られております。 ◇ 本妙寺と明暦の大火 〜幕府の威信を守るため泥をかぶる〜 明暦の大火には、さまざまな噂がついてまわった。浪人放火説(幕藩体制への不満)、幕府放火説(老中松平信綱による江戸の都市整備の為の放火)、本妙寺失火説(振袖火事)。しかしてその実体は、「本妙寺火元引受説」であった。 明暦の大火は、火元が1ヶ所ではなく、本郷・小石川・麹町の3ヶ所から連続的に発生したものだった。ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ、次の火災が発生し、結果的に江戸市街の6割、家康開府以来から続く古い密集した市街地において、その全てが焼き尽くされた。 3回の出火 1月18日未の刻(午後2時頃)、本郷4丁目西口の本妙寺より? 1月19日巳の刻(午前10時頃)、小石川伝通院表門下、新鷹匠町の大番衆与力宿所 1月19日申の刻(午後4時頃)、麹町5丁目の在家より 最初の出火は、実際は老中・阿部忠秋の屋敷であった。しかし、老中の屋敷が火元となると、幕府の威信が失墜してしまうという事で、幕府の要請により阿部邸に隣接した本妙寺が火元ということにし、上記のような因縁話を広めたのであった。 当時、幕府は火元に対しては厳罰をもって対処してきた。だが本妙寺に対しては一切お咎めなしであった。しかも阿部家はこれ以降、なんと大正時代にいたるまで、毎年、供養料として本妙寺に少なからぬ額を納め続けたのである。明暦の大火の供養ならば、その為に建立された回向院こそがふさわしいと思えるのにも拘らず。 本妙寺は三年後には、客殿、庫裡を、六年後には本堂を復興している。それにしても阿部家の供養料が大正12年の関東大震災にいたるまで260年余にわたり 奉納されていたことは、別の意味で、往時の人々の律儀さ、品格を感じてしまう。 この事実を本妙寺が初めて公に明かしたのは、昭和40年頃、昭和58年には檀家の杉山繁雄氏が詳しく調べて書いた「振袖火事の真相」を寺報に発表した。 なんと、明暦の大火の出火元が幕府の老中阿部忠秋邸だという事実を隠すため、本妙寺が三百余年間にわたって、その汚名をかぶり続け、本妙寺が出火元だと歴史上いわれてきたのだ。 ◇ 回向院(えこういん)(諸宗山回向院) 東京都墨田区にある浄土宗の寺。国豊山無縁寺と号す。1657年の明暦の大火で焼死した者(10万余人とも)を埋葬して塚を築いて「万人塚」として、供養したのが始まり。安政大地震(1855年)の死者2万5千人余を初めとして江戸府内の無縁佛、天災地変による死者も埋葬され、近くは大正12年の関東大地震の死者十万余人の分骨も納骨堂に安置される。本尊の阿弥陀如来は東京都重要文化財指定。 |

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河合隼雄氏がお亡くなりになりました由、ご冥福をお祈りいたします。最近、『猫だましい』を読んだばかりです。とてもいい本です。
2007/1/20(土) 午後 4:26 [ kaz*_51** ]