|
平成19年1月19日(金)一昨夜:あゝ井沢八郎、逝く。工藤夕貴の誕生日当日に。 1862年1月19日、森鴎外が誕生しました。 ◇ 森 鴎外(1862〜1922)(本名:林太郎、小説家・翻訳家・軍医) 石見(いわみ)国鹿足郡津和野町(島根県鹿足郡津和野町)に生まれた。 彼の生まれた家は代々、津和野藩亀井家の典医の家柄、彼も第一大学区医学校 (現・東大医学部)予科に入学し、卒業後は陸軍軍医となる。 明治17年から5年間ドイツに留学し衛生学などを学び帰国し、世界最先端の医学知識をもたらすと共に、ドイツでの留学体験を活かした「舞姫」「うたかたの記」「文つかい」など多くの作品を発表しました。また、ヨーロッパ文芸の紹介につとめ、アンデルセンの「即興詩人」やゲーテの「ファウスト」を翻訳出版。日本文学界に多大な影響を与えた。 軍医と文学者の二つの顔をもつ彼は、一時、その文学活動を快く思わない人たちにより、九州・小倉に左遷される。その後、日清・日露両戦争に出征。医学博士として軍務に励み、1907年には軍医総監となり、軍医として最高位まで登りつめた。 彼は誰憚ることなく、再び文学活動を始め「雁」「高瀬舟」「阿部一族」「山椒太夫」などの代表作を次々と発表。晩年は帝室博物館長、帝国美術院長を務めた。 大正11年7月9日没、享年60。臨終に、「石見人森林太郎トシテ死セント欲ス」という遺言を残す。彼の墓碑には遺言通りに、一切の栄誉・称号を排し、「森林太郎墓」とのみ刻されている。 ※ 三鷹の禅林寺に「森林太郎墓」あり。大にして簡素。斜向いに太宰の墓。 細菌学を究めて以来、パスツール同様に潔癖症となる。全ての食べ物を加熱せずには食す事が出来なくなってしまった。長女・森茉莉はエッセイで、「彼は潔癖症で果物も野菜も決して生では食べず、饅頭を割って御飯の上にのせ、煎茶をかけてたべる、饅頭茶づけが大の好物だった」とか。だが、鴎外は風呂嫌いで垢じみていたとも … 。 富人が金を得れば、悪業が増長する。 貧人が金を得れば堕落の梯(はしご)を降って行く。 ―『青年』 少壮時代に心の田地におろされた種子は、 容易に根を断つことの出来ないものである。 ―『妄想』 ◇ 「仮面の人・森鴎外」林 尚孝(2005年、同時代社刊) 漱石にくらべ、鴎外は謎多き人物である。その遺言は、官界の王道を歩んだ人のものとは思えない異様な内容である。若き鴎外がドイツ留学から帰国してからの二年間は波瀾万丈であった。ドイツ人女性の来日、赤松登志子との結婚、そして「舞姫」の発表、長男・於菟(おと)の誕生に続く離婚。この二年間の異常な出来事をこれまで説明する事はできなかった。諸資料の解析によりエリーゼ・ヴィーゲルトを結婚するために招いたとしか考えざるをえない。 この“舞姫事件”での苦い体験が鴎外に生涯にわたるトラウマを与え、それがいくつかの作品に反映している。新しい鴎外像を紹介したい。(著者の自著紹介) <鴎外の遺言> 大正11年7月6日 余ハ少年ノ時ヨリ老死ニ至ルマデ一切秘密無ク交際シタル友ハ賀古鶴所君ナリ ココニ死ニ臨ンデ賀古君ノ一筆ヲ煩ハス死ハ一切ヲ打チ切ル重大事件ナリ 奈何ナル官権威力ト雖、此ニ反抗スル事ヲ得スト信ス 余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス、宮内省陸軍皆縁故アレトモ生死別ル瞬間アラユル外形的取扱ヒヲ辞ス、森林太郎トシテ死セントス、墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可ラス、書ハ中村不折ニ委託シ宮内省陸軍ノ栄典ハ絶対ニ取リヤメヲ請フ、手続ハソレゾレアルベシコレ唯一ノ友人ニ云ヒ残スモノニシテ何人ノ容喙ヲモ許サス <舞姫の梗概> 考古学者・矢木元男は以前、妻の波子の家に書生をしていたという劣等意識から、結婚後、高男、品子の二人の子どもが成人した今に至るまで、夫婦間に心の通うことはなかった。 そうした家庭の冷たさが高男と品子との二人の子供にも反映して、いつか高男は父の味方、波子と同じくバレエで未来を嘱望されている品子は母の子という風に別れてしまっていた。 波子は、娘時代から自分を愛してくれている竹原と今も度々逢瀬をかさねている。いっそ竹原をたよって、矢木と別れようかとも悩むのであった。 波子の弟子の友子が、妻子ある男との恋愛からストリッパーに転向した時、波子はいっそ友子の生き方を羨ましいとさえ思うのだった。 ある日、波子の日々の家計の苦労をよそに、矢木が内緒の貯金をしていると知ったとき、波子は竹原と関西への旅に出る決心をする。だがその矢先に、高男から父の病気を知らせて来た。波子は再び自分の家へ帰って行く。そこには、ひとり淋しく「白鳥の湖」の曲に耳を傾ける夫の後姿があった。波子は矢木の心境が初めて我が身に感じられ、彼への新しい愛に目覚めるのだった。 ※ 人は日常生活と言う名の“仮面”をつけて時をやり過ごす。仮面の下には、人には言えぬ懊悩が、あるいは自身でも見つめたくない“素顔”が隠されているのかも知れない。鴎外は、小説の世界で少しは自分を解放できたかもしれないが、死んで初めて全き自由が得られたのであれば、鴎外の生涯は、一体何であったのか。 それは松本清張の短編「或る『小倉日記』伝」で、半生を賭けて鴎外の失われた「小倉日記」の発掘に奔走した田上耕作に比すべきかも知れない。田上耕作の死後、鴎外の日記は発見された。彼の十年余の努力は空しいものだったのか。 官に対する恨みすら感じさせる鴎外の遺言は、彼の栄光の軍医時代への呪詛なのであろうか。 「ルサンチマンの作家」と言われた清張が、「或る『小倉日記』伝」で芥川賞を受賞するのは、必然だったのか。 ※ 漱石は、鴎外とは対照的に倫敦留学が懊悩の素であった。 ※ 今日1月19日には、松任谷由美、宇多田ヒカルも生まれております。
|

- >
- Yahoo!サービス
- >
- Yahoo!ブログ
- >
- 練習用





木瓜の花 南都雄二と 聞く子かな。 この句を見ると、森鴎外も意外にユーモアがあったように思いますね。「なんというじ」を南都雄二という漫才師の名にかけたところなど。彼の遺言を読みますと、作り造られた外形と内面が、本来的な性格といかに背反していたが分かる気がします。
2007/1/20(土) 午前 10:06 [ kaz*_51** ]