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平成19年1月22日(月)昨夜:予定していた「発掘!あるある大事典2」の放送を 差し替え視聴者へのお詫び放送。番組捏造で苦情殺到。番組続投は事実上困難。 21日の放送が休止となった影響で、同日午後9時からの約1時間にわたり、ノーCM放送となった。同10時スタートの情報生番組「スタメン」の開始を1時間繰り上げ、そのまま1時間拡大して放送した。だが、「スタメン」の枠内のCMを同時に1時間早めて放送することは、契約の問題で出来ない。突然、CMのない「NHK状態」のあおりを受けた制作スタッフは、1時間の生番組の構成に対応するため、頭を悩ませた。 ※ 納豆業界の憤懣やるかたなし。一時は在庫が底払いして、謝罪する場面もあったのに、ダイエット効果なしと分かり、その“リバウンド”で納豆が敬遠されるのでは、という危惧が … 。 ◇ そのまんま東氏(49)が、保守分裂の間隙をつき、速攻当確、万歳謝絶 「真価はこれから」。官製談合事件からの出直し宮崎県知事選は21日、タレントそのまんま東氏が元官僚や政治家2世を退け、当選。「しがらみのない政治ができるのはわたしです」と、有権者の手を握り続けた選挙戦。保守分裂も追い風になった。「お笑い芸人がどこまで」と、軽視していた対立陣営は、敗北に色を失った。 「宮崎をどげんかせにゃいかん。新しくしたいという思いが日に日に浸透した。手づくりの選挙が、わたしの血となり肉となった」。お笑い芸人の顔をかなぐり捨てて、真剣な表情で、「宮崎を変える」と走り回った草の根選挙。壇上でも支持者の万歳におじぎを繰り返すのみ。カメラマンが「東さんも万歳を」と求めても「私はしません」と、断った。 敗れた元林野庁長官の川村秀三郎氏(57)は「知名度がなかった。残念」。そのまんま東氏の当選という事態に、陣営幹部は、「県民の判断でとやかく言うべきでないが、なぜ地方自治が大変な今なんだ」と、呆然としていた。 政治家2世で、自民、公明両党の推薦を受けながら惨敗した持永哲志氏(46)は安倍晋三の推薦状が張られた大広間で、何度も「申し訳ございませんでした」と頭を下げた。 「たけし軍団」の一員として売り出し、後輩への暴行や風俗店での不祥事も発覚したが、その後、早稲田に再入学し政治を志したそのまんま東。地域間格差、悪化する宮崎県政…。政策を語る際には芸人らしい軽妙な語り口から一転、身ぶり手ぶりを交えた真剣な表情に。まじめさを前面に出し、有権者から「本人への見方が変わった」との声も上がっていた。 川村秀三郎陣営は「芸能人が応援に来てくれれば、しょせんタレント候補というイメージになったのに…」との本音も … 。浮動票の少ない宮崎県で、終盤は「投票率が上がれば当選かも」との見方が広がっていた。 ※ そのまんま東氏が選ばれたのではなく、官製談合事件からの出直し選挙であるにもかかわらず、旧来のパターンとも言える元林野庁長官・川村秀三郎氏(県連支持)あるいは元経済産業省課長・持永哲志氏(自民公明推薦)という官僚出身者を臆面もなく立てる感覚が、第一に嫌われたのだ。 しょっぱなに、「談合は必要悪」と発言する致命的な舌禍があったにも拘わらず、開票直後に当確を打つ圧倒的優位を得た。ひとえに宮崎県人が官僚政治に「ノー」を突きつけた結果だった。 だが、県職員も老練なる専門家だ。故青島幸男元都知事と同様の轍を踏むことなく、任期を全うするのは容易ではないだろう。自ら一県民として愚直を貫いて、一期できれいに身を退かれることが望ましい。 保守分裂の事態を招く安倍政権の脆弱さは、論をまたない。官制談合、政治資金の不透明性、どっちつかずの優柔不断。有権者の大半は既成政党を離脱している。翻って民主党の凋落ぶりも目を覆うばかり。独自候補の擁立さえできず、保守分裂という、あたらチャンスをみすみす手をこまねいて見るばかり、情けない。 宮崎県知事選 そのまんま東 無新 266807 川村秀三郎 無新 195124 持永 哲志 無新 120825 津島 忠勝 共新 14358 武田 信弘 無新 3574 1980年1月22日、ソ連の反体制物理学者・サハロフが流刑される。 ◇ アンドレイ・サハロフ(1921.5.21〜1989.12.14) 旧・ソ連の物理学者。モスクワ大学卒。1953年、科学アカデミー正会員。「ソ連水爆の父」と尊称され、レーニン勲章を受けたが、後にスターリン主義を批判し、反体制の立場をとる。 1970年に人権委員会を設立、1975年にはノーベル平和賞を受賞したが、1980年、国内流刑に処せられる。1986年、流刑解除。以後、ペレストロイカ(改革開放)を支持し、積極的に発言。「ペレストロイカの父」とも呼ばれた。1989年、科学アカデミーから人民代議員に選出。 1986年1月22日、日本社会党が路線転換し、「新宣言」を採択。 サハロフの流刑が解除された1986年、この年の1月22日に日本社会党がマルクス・レーニン主義から脱却して、社会民主主義路線に転換する新宣言を採択。これにより、社会党は初めて暴力革命を完全に放棄して、議会政党の地位を確立した。その時の委員長は石橋政嗣だったが、夏のダブル選挙では大敗、土井たか子が委員長に就任した。
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