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平成19年1月25日(木)昨日:「イラク開戦判断は誤り」久間防衛相、米大統領を批判。 久間章生防衛相は24日、日本記者クラブで会見、イラク戦争につき「核兵器がさもあるかの ような状況でブッシュ米大統領は踏み切ったのだろうが、その判断が間違っていたと思う」と 指摘、ブッシュ大統領を批判。さらに「後をどうやって処理するか、処方箋がないまま」と。 ※ ブッシュ大統領はかつて、イラク人虐待問題で謝罪し、最近では、イラク開戦の判断の 誤りも一部認めました。近い将来、イラク増兵政策について謝罪を迫られるかも。 1月25日は、【お詫びの日】でございます。 1077年の1月25日より3日間、神聖ローマ皇帝ハインリッヒ四世が雪の中で裸足で カノッサ城門の前に立ち、教皇グレゴリウス七世に破門の許しを乞う、「お詫び」を しました。世に「カノッサの屈辱」と呼ぶ。カノッサはイタリア北部の地名です。 ○ 中世ヨーロッパ史、「カノッサの屈辱」、教皇権の優位 聖職叙任権をめぐる神聖ローマ皇帝ハインリヒ四世とローマ教皇の対立は、 「カノッサの屈辱」事件でクライマックスを迎えます。 1075年、ハインリヒ四世はイタリアの支配をめざし、ミラノ大司教や中部イタリアの フェルモ・スポレトの司教を次々と任命した。教皇グレゴリウス七世はこれらの叙任を 非難すると共に、教皇の権威を無視した皇帝の行為の数々を厳しく叱責、皇帝が行いを 改めなければ帝位を失うことになるであろうと言う旨の書簡を書き送った。この書簡は ハインリヒを激怒させた。 彼は直ちに諸侯を集め、教皇の廃位を決定。これに対し教皇も、1076年2月のローマ 公会議で皇帝の廃位と破門を宣言して応酬した。破門の知らせは、ドイツ国内を混乱に 陥れた。諸侯たちはハインリヒに次々と反旗を翻した。あわてたのはハインリヒである。 遂に彼は、この難局を切り抜けるため、ローマに赴いて教皇から破門を解いて貰う決心を する。 1077年1月、ハインリヒ四世は、厳冬のアルプスを越え、教皇グレゴリウス七世の滞在 する北イタリアのカノッサ城に到着。しかし、グレゴリウスは中々ハインリヒに会おうと しなかった。ハインリヒのたび重なる懇願にも心を動かさなかった。だが、カノッサ城主 トスカナ伯夫人・マチルダのとりなしもあり、最後にはグレゴリウスも譲歩した。しかし、 ハインリヒはカノッサ城外で悔恨の心を示すことを要求されたのだ。 1月25日から27日までの3日間、彼はただひとり、無帽裸足で、わずかに粗末な修道衣を まとっただけの姿で、カノッサ城の前で雪の上に立ち続けた末、ようやく教皇に会うことが できました。皇帝は十字架の形で教皇の前にひれ伏し、何度も大声で叫びました。 「聖なる教皇様、お許し下さい。敬虔なるお方よ、私をどうかお許し下さい」 版画ではハインリッヒ四世が妻子と共に裸足で三日間雪の積もる城外に立ちつくす姿を 描いていますが、実際は教皇の許しを請う為に彼一人がカノッサに赴いたもので、ローマ 教皇の権威を高める為の誇張でした。 この事件はローマ法王権の優位を決定づけたが、その後、ハインリヒ四世はグレゴリウス
七世を攻めたてて死に追いやった。そのハインリヒ四世も、後に我が子に背かれ、退位を 迫られています。栄枯盛衰は世のならいとか。人の一生は、夢幻泡影のうち雷光一閃するに さも似たり。 |

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ランダムからお邪魔します。勉強になります。 小さい頃会ったんだ。ヨハネ・パオロ二世。
2007/1/25(木) 午前 10:30 [ bib*hi*u2*07 ]