今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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2月1日、佐賀の乱

 平成19年2月1日(木)昨日:安倍首相、青木参院会長に更迭回避に向けての協力要請。
 死に体内閣の末期的様相、更に深刻化。旧態依然の自民党に本家帰り?

 とめどなき綻びばかり溢れおり 安倍内閣よ砂上の楼閣



 1874年2月1日、『佐賀の乱』が起こりました。
 前・司法卿の江藤新平と佐賀征韓士族らが蹶起したもの。


 佐賀の乱は、1874年(明治7)2月に江藤新平・島義勇(しまよしたけ)らを
リーダーとして佐賀で起こった明治政府に対する士族反乱の一つ。佐賀の役
佐賀戦争とも称す。不平士族による初の大規模反乱であるが、政府の素早い
対応により、あっけなく鎮圧された。

 征韓論問題で下野した前参議江藤新平を擁する中島鼎蔵などの征韓党と、
前侍従・秋田県権令島義勇、副島義高らを擁する憂国党による士族を中心と
した反乱であり、以後続発する旧藩士による乱の先陣となったもの。

 征韓党と憂国党は仲違いしており、江藤は反乱に積極的ではなかったが、
両者は江藤の帰郷により共同して反乱を計画する。佐賀城(佐賀県佐賀市)
を奪うが、政府側の大久保利通が早急な対応をし、嘉彰(よしあきら)親王
(後の小松宮彰仁親王)を征討総督とした近衛兵や鎮台兵などの政府軍を派遣
して劣勢となる。福岡との県境の朝日山(現・鳥栖市)で戦闘があり、陸軍
少将野津鎮雄の兵が佐賀城下に進攻すると江藤は征韓党を解散し、鹿児島県
へ逃れて下野中の西郷隆盛に助力を求めるが拒否され、東京を目指して伊予
から土佐に逃れる途中、手配書が廻っていたために阿波国境で捕縛された。

 佐賀の乱忠魂碑:佐賀市水ヶ江にあり。地元有志によって大正年間に建立
されたものである。江藤は東京での裁判を望んだが、大久保は急遽設置した
佐賀裁判所において権大判事河野敏鎌に審議を行わせた。わずか2日の審議
で江藤、島はじめ11名が斬首となり、さらし首となる。江藤らの裁判は当初
から刑が決まった暗黒裁判で、答弁や上訴の機会も与えられなかった。

 明治政府の司法制度を打ち立てた江藤当人が、昔の部下である河野にこの
ような裁判の進行をされたことを非常に無念に思った、との伝聞が伝わる。
その後もしばらくは佐賀で、士族らを中心に不穏な動きが続き1877年(明治
10年)の西南戦争などに合流する士族もあったが、ついに佐賀自体で二度と
反乱が起こることはなかった。なお、反乱後しばらく庶民の間で、江藤の霊
を信仰すると、諸病が治り、訴訟がスムーズに決着するとの風聞が流れた。
のち1919年(大正8)、特赦が行われて江藤や島も赦免され、叙任されると
ともに、地元有志によって佐賀城近くの水ヶ江に佐賀の乱の戦没者の忠魂碑
が建てられました。

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