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平成19年2月9日(金)昨日:「穴あき」ダム建設、長野県、脱ダム方針を転換。 つまり、田中康夫前知事の「脱ダム」宣言では儲からない、と言うお話。 ○ 政治不信 どこまで続く 言葉狩り かつて、「未納3兄弟」と激しく相手を攻撃した後、自身も未納であったことが発覚した 論客なのか、只の粗忽者なのか、イマイチ判然としない菅直人氏が、またまたお騒がせ。 民主党・菅代表代行の「子供を生む生産性が低い」との発言が猛烈批判に晒される 柳沢伯夫厚労相の「女性は子供を産む機械」「子供を2人以上もちたいという健全な状況」 といった発言が民主党など野党に厳しく追及されているが、今度は公明党が、民主党・菅直人 代表代行の「子供を生む生産性が低い」との発言を猛烈に批判し始めた。「言葉狩り」にまで 発展している民主党の追及が、今度は「言葉狩り」で逆襲される格好。 公明新聞(2月7日)が猛烈に菅氏批判を始める、目には目を、言葉狩りには言葉狩りを 菅氏は、愛知県知事選が告示された1月18日に名古屋市東区で演説を行い「愛知も東京も 経済がいい。生産性が高いといわれるが、ある生産性は、一、二を争うぐらい低い。子供を 産む生産性が最も低い」(1月19日付「朝日」名古屋地方版)と述べた。 「産む生産性」は菅の“決め”の言葉だった? 菅氏は以前にも「少子化問題でも、生産性が高い東京が、子どもの生産性は一番低い」と 答えており、「産む生産性」は菅氏の「お決まり」の言葉だった可能性が高い。 ※ 結局のところ、「男って、“どっちもどっち”なのね」という全女性の嘆きが 聞こえてくるばかりか。 1698年2月9日、上野寛永寺根本中堂の造営工事が開始されます。 用材調達を受け負った材木商・紀伊国屋文左衛門は、これで巨富を得ます。 ○ 紀伊国屋文左衛門 (1669年?〜1734年?) 江戸時代、元禄期の商人。元姓は五十嵐氏。名は文吉。俳号は千山。略して 「紀文」と呼ばれ、「紀文大尽」と言われた。生没年もはっきりしないなど、 人物伝には不明な点が多く、半ば伝説上の人物。「架空の人物である」とする 説もあるが、実在したとする説が主流。 紀州(和歌山県)の湯浅(湯浅町)の出身。文左衛門が二十代の頃、紀州みかん や塩鮭で富を築いた話が伝えられる。元禄年間に江戸八丁堀へ住み、江戸幕府 の側用人・柳沢吉保や勘定奉行の荻原重秀、老中の阿部正武に賄賂を贈り接近 したと言われる。上野寛永寺根本中堂の造営で巨利を得て、幕府御用達の材木 商人となるも、深川木場を火災で焼失、材木屋は廃業し、晩年は浅草寺内、後 に深川八幡で過ごした。晩年には宝井其角らの文人とも交友し「千山」の俳号 を名乗った。1734年に死去したとされる。墓所は江東区の霊巌寺とされる。 ○ 蜜柑船伝説 文左衛門が二十代のある年、紀州は驚くほどミカンが大豊作だった。収穫さ れたミカンを江戸に運ぼうとしたが、その年の江戸への航路は嵐に閉ざされて いた。江戸へ運べなくなり余ったミカンは上方商人に買い叩かれ、価格は暴落 した。また江戸では毎年、鍛冶屋の神様を祝う「ふいご祭り」があった。この 祭りでは、鍛冶屋の屋根から蜜柑をばら撒いて地域の人に振舞う風習があった が、紀州から船が来ない事でミカンの価格は高騰していた。 紀州では安く、江戸では高い。これに目をつけたのが文左衛門だった。早速 文左衛門は玉津島明神の神官で舅の高松河内から大金を借りて、ミカンを買い 集め、家に残った大船を直し、荒くれの船乗り達を説得し命懸けで嵐の太平洋 に船出した。大波を越え、風雨に耐えて何度も死ぬ思いをしながら、文左衛門 はついに江戸へたどり着く。この時の様子が「沖の暗いのに白帆が見ゆるあれ は紀ノ国蜜柑船」とカッポレの唄に残った。 ミカン不足の江戸でミカンは高く売れて、嵐を乗り越えて江戸の人たちの為
に頑張ったと、江戸っ子の人気者になる。大坂で大洪水が起きて伝染病が流行 っていると知った文左衛門は、江戸にある塩鮭を買えるだけ買って先に上方で 「流行り病には塩鮭が一番」とデマを流し上方に戻った。デマを信じた上方の 人々は我先に塩鮭を買い求め文左衛門が運んできた塩鮭は飛ぶように売れた。 紀州と江戸を往復し大金を手にした文左衛門は、その元手で江戸に材木問屋を 開き、江戸城をも焼いた明暦の大火の時には木曽の材木を買占めて一気におよ そ百万両を手にした(?)こうして文左衛門はしがない小商人から豪商へと出世、 富と名声を掴んだ、と言う伝説がある。 |

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