今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成19年3月4日(日)親子:父親の4人に1人、「平日に子供と接触なし」
 子の悩みを半数が知らず、成績は9割が把握。成績を見て子を看ない親の姿。


 1771年3月4日、杉田玄白・前野良沢らが処刑された死刑囚の解剖(腑分け)を
 見学する。

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 ドイツ人・クルムス(1689−1745)は解剖図譜「ターヘル・アナトミア」を著し、オランダ人・ディクテンが1734年に蘭訳。1771年(明和8年)3月4日、前野良沢と杉田玄白とは、蘭訳のクルムス解剖書を手に、そして中川淳庵らも加わって小塚原での腑分け(処刑された罪人の解剖)に立ち会った。 実際の解剖と見比べて『ターヘル・アナトミア』の正確さに驚嘆した杉田玄白は、これを翻訳しようと前野良沢に提案する。かねて、蘭書翻訳の志を抱いていた良沢はこれに賛同。中川淳庵も加え、翌日の3月5日から前野良沢邸に集まり、翻訳を開始します。そして、4年後に『解体新書』出版となる。

 ※ 当時、刑場は、北に小塚原(骨ヶ原)、南に鈴ヶ森があった。その小塚っ原には回向院の別院があった。そこに首切り地蔵がある。『解体新書』のきっかけとなった場所に因み、観臓記念碑がある。 回向院 (延命寺) :荒川区南千住1-59(日蓮宗)。

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 当初、玄白と淳庵はオランダ語を読めず、オランダ語の知識のある良沢も、翻訳を行うには不十分な語彙しかなかった。オランダ語の通詞は長崎にしか居らず、質問もできず、辞書も存在しない絶望的な状況下で、歴史的翻訳作業は始まった。 それは全く暗号解読ともいえる手法により、一語一語を攻略してゆくもので、気の遠くなるような作業だった。この間の様子については、玄白晩年の著書『蘭学事始』に詳しい。 安永2年(1773年)、翻訳の目処がついた処で、世間の反応を確かめるべく『解体約図』を刊行。翌安永3年『解体新書』を刊行するに及ぶ。


 ◇ 前野良沢 (1723〜1803)

 九州中津藩士、築地の中屋敷に住まいする。47歳で、薩摩芋博士・青木昆陽に蘭学で師事。青木が作った蘭和単語集を写し覚える。単語数わずか721語。しかもABC順ではなく、恣意的に羅列したもの。はなはだ使い勝手が悪かった。

 長崎へ留学し、長崎通司に師事するも、彼らは会話はできても蘭語を訳す力は乏しかった。成果はわずかに、クルムス解剖書とマリン仏蘭辞書を入手できたことだけだった。彼は勿論、フランス語などできない。ただ、蘭語に蘭語で詳しい注釈がついていた。そこで、蘭蘭辞書として利用することにした。蘭語「日暮れ」を引くと、蘭語で、「一日の終わりの部分なり」と注釈がつく具合であった。

 毎月6回から7回、築地の良沢家で、良沢を師と仰いで訳読会を開く。良沢49才、玄白39、中川淳庵33、桂川甫周21才の時であった。良沢版改良単語集と仏蘭辞書を開き、人体図から始めた。文法、定冠詞、助詞、形容詞、副詞、関係代名詞の存在、その解釈に苦労する。神経、軟骨、十二指腸、門脈という用語を造った。

 良沢は高い理想を持ち、眼光鋭く、語学の天才、学究肌で、困難なことに発奮する人物。その反面、頑固、偏狭、独善的で社交性の欠けた孤独の人だった。完全主義者で完璧な訳書を目指した。世間に背を向け、反骨精神が強く、著名になることを拒絶。解体新書の訳者名を辞退する。藩主は心が広く、良沢を翻訳業に専念させ専門書を買い与えた。藩主は良沢を「オランダ人の化け物」といい、良沢自身、「蘭化」と名乗ったと言う。ラテン語と仏語の翻訳も行ったが、出版はしなかった。門人を育成する考えもなく、良沢の楽しみは茶碗一杯の焼酎だった。一生を赤貧に甘んじ、最晩年81歳で、わが娘の嫁ぎ先に引き取られて、世に知られることなく寂しく死んだ。墓は丸ノ内線新高円寺駅から南の慶安寺にあり。


 ◇ 杉田玄白 (1733〜1817)

 蘭学医。若狭国小浜藩医(福井県)。字は子鳳、晩年に九幸翁。 共同翻訳作業グループの結束に努力。発起人・まとめ役となり、良沢を前面に押し立てた。人の長所を巧みに引き出す才能を持っていた。現実主義と合理性を重んじる明るい性格で実務を取り仕切った。天性の社交性と統率力をもち、優秀なオルガナイザーだった。

 処世術にも長け、抜け目なく功名心を満たした。解体新書を踏み台に、巨利を得たとか。将軍拝謁の栄をも享けた。栄華は長く続き、「天真楼塾」を創設。蘭方医学書を購入して、若き研究者に貸し与え、後進育成にも貢献した。ただ玄白自身は、当初から蘭語理解に熱意は無く、専ら訳書出版に注力した。終生、蘭語を理解しなかったとも。

 本格的な蘭和辞書・波留麻(ハルマ)和解が出版されたのは1796年で、64000語を収蔵した。13分冊で30部発売された。これにより、師事することなく蘭書が読めるようになった。その後、玄白の弟子・大槻玄沢が、1826年「重訂解体新書」を出版するに及ぶ。 墓所は東京都港区愛宕の栄閑院。


 ◇ 波留麻和解(はるまわげ)(江戸ハルマ)

 原著:Francois Halma、訳編:稲村三伯、序文:大槻玄沢

 波留麻和解は寛政8年(1796)に成立した、わが国最初の蘭和辞書。蘭学者・稲村三伯が石井恒右衛門、宇田川玄随らの協力を得て、オランダの出版業者・フランソワ・ハルマ(1653-1722)の著わした蘭仏辞典(1708年)を底本として、オランダ語の見出し語一つ一つに和訳語をあてたもの。 また、稲村三伯のものとは別に、オランダ商館長ヘンデレキ・ドゥーフの指導の下に、同じハルマの蘭仏辞典を用いて中山得十郎、吉雄権之助らが文化13年(1816年)に完成させた蘭和辞書を「ドゥーフハルマ」もしくは「長崎ハルマ」と通称し、稲村三伯の物は、これに対して「江戸ハルマ」と呼ばれた。

 「波留麻和解」はその後の蘭学の発達や海外文献の翻訳の進展に、大いに与って力があり、大きな影響を与えた文化史的意義の大きな資料であった。オランダ語の「ナトゥール」に、中国語で道教的な意味を持っていた「自然」という訳語をあてたのも、この「波留麻和解」においてであり、西洋文明と近代文明を受容してゆく過程において、日本語を大きく変え、ひいては日本人の意識を変える原動力ともなった記念碑的書物と言える。

 早稲田大学図書館所蔵 江戸ハルマ(蘭和辞書)全文画像公開
 http://www.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/b08_a0209_all/index.html


 ※ 前野良沢と杉田玄白と、誠に好対照なる二人。学問に真摯なるは良沢。
 後世に寄与したるは玄白。俗世の栄達を極めし玄白に比し、良沢の晩年哀れ。

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 ※ 子供の頃、NHKドラマで『解体新書』を知りました。学問のために三人の登場人物がオランダ語と悪戦苦闘するさまに、知的興奮というものを知った。ある時、庭掃除をしていると、落ち葉が次第に集まり小さな山をなす。その光景を見て良沢が大声で叫ぶ。 「あのオランダ語は、『うず高くなる』という意味だっ」。

 こどもの頃は純真だから、NHKドラマで色んなことを教わった。からくり儀右衛門と呼ばれた、田中儀右衛門の少年時代を描いたドラマは、毎回とても楽しみだった。物を考える時の方法論を学んだ。三角関数など知らない“ぎーちゃん”が、巨木の高さを樹を登らずに算定するなど、推理ドラマのような面白さがあった。少し年上の、織物を得意とする少女とのやりとりも興味ぶかかった。

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杉田玄白ってうちのじいちゃんにそっくり・・・・・

2007/6/14(木) 午後 0:31 [ 寝論判 ]


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