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平成19年3月5日(月)昨日:中国国防予算17.8%増、日本の防衛費を抜く。 17.8%増の理由は、兵士の生活向上(ホント?)と装備のハイテク化とか。 中国=5兆3300億円、日本=4兆8000億円。自衛隊は日本政府の「軍隊」だが、 中国人民解放軍は中国共産党の軍隊で、文民統制の全くの埒外となる。 中国国防予算には、外国から購入した兵器の費用は算入されないなど極めて不透明。 実態はこの数倍とも。一党独裁の経済大国、世にかほど恐ろしきものなし。 1580年3月5日、石山本願寺と織田信長が和議、顯如が石山を退去。 (信長は天下布武のための拠点として、大坂・堺を重要視していた。) ○ 石山合戦(いしやまがっせん) 1570年(元亀元年)9月12日から1580年(天正8年)8月2日にかけての、浄土 真宗本願寺勢力(一向一揆)と織田信長との戦い。本願寺門主の顕如が石山本願 寺に篭って戦ったことから石山合戦と言われる。石山戦争とも。 広義では、1570年9月12日の石山挙兵から1580年8月2日の顕如退去までの 11年(10年間)を指すが、1580年閏3月7日に本願寺は大坂退去の誓紙を信長 に届けて戦闘行為を休止したことから、閏3月7日を終わりとする事もある。 戦国時代最大の宗教的武装勢力である本願寺勢力と、天下布武を目指す織田 信長との軍事的・政治的決戦であり、石山合戦の終結と同時に各地の一向一揆 はその勢いを著しく失う。また、江戸時代に本願寺勢力が東西に分裂する遠因 ともなった。 大坂石山本願寺は、もとは本願寺8世の蓮如が隠居先として選んだ場所で、 大坂御坊(石山御坊)と呼ばれた。畿内では本願寺は京都山科を本拠としたが 一向一揆を背景として本願寺の影響力が強くなると、その武力を恐れた細川晴 元は日蓮宗徒らと結託し、天文元年(1532年)8月に山科本願寺を焼き討ちした (天文法華の乱)。これにより山科は廃墟となり、本願寺は本拠を新たに定め なければならなくなった。本願寺は当時、加賀に大きい勢力を持っていたが、 加賀は信者の往来には不便であり、京都からも遠かった。そこで、10世の証如 は京都に近く、交通の便の良い大坂御坊を本願寺の本拠とし石山本願寺と改称 した。こうして、石山本願寺は本願寺の本拠として発展。 そんな中、1568年に織田信長が足利義昭を擁して上洛に成功。義昭は室町幕 府13代将軍足利義輝の弟であり、義昭が信長の武力とともに京都に入った事で 将軍の地位は14代義栄から義昭に渡ることが確実になった。信長は、上洛した 勢いと義昭の権威を背景として、上洛してすぐに畿内をほぼ制圧した。さらに 信長は本願寺に「京都御所再建費用」の名目で矢銭(やせん)5000貫を請求し、 更に石山からの立ち退きを要求したが、顕如は矢銭の請求のみを受け入れて、 これを支払った。 1570年、信長は顕如に再度の立ち退き令を出したが、顕如も頑として譲らな かった。そのため、本願寺と信長の間は険悪になり、逆に義昭と本願寺が接近 するようになった。信長は、この年の9月に三好氏征伐を決行する。これは、 名目上は前年正月に三好氏が京都を攻めたことへの報復であったが、信長自身 「三好氏の次は本願寺だ」という発言があったとされており、その本当の目的 は本願寺への脅迫であった。 ○ 淀川堤の戦い 1570年9月12日、顕如は「信長は本願寺を取り潰す仏敵である」として本願 寺門徒に檄を飛ばし、三好氏攻略のために摂津福島に陣を敷いていた織田軍を 突如攻撃した。そのまま本願寺軍は石山を出て、14日に淀川堤で信長軍と直接 激突。この戦いは織田軍優勢のうちに終わり、本願寺軍は石山に戻り篭城の構 えを見せた。織田軍は既に四面楚歌の状態であるため、石山に監視のための軍 を置くと、朝廷に働きかけて本願寺軍に矛を収めるよう勅書を出すなど本願寺 との戦闘を避けた。そのため、石山本願寺の第一次挙兵は、実は1月もたたぬ うちに実質的には終わった。 ○ 木津川海戦 1576年春、顕如は毛利氏に庇護されていた将軍足利義昭と与して三たび挙兵 した。信長は4月14日、明智光秀らに命じて石山本願寺を三方から包囲した。 しかし、包囲後も本願寺は楼岸(現大阪市東区)や木津(同浪速区)から海上 を経由して弾薬・兵糧を補給しており、信長軍が木津を攻めると、本願寺軍は 逆に一万を超える軍勢をもって木津の信長軍を蹴散らし、天王寺砦付近まで攻 め入った。この敗報を聞いた信長は、すぐさま諸国へ陣触れを発したが、突然 のことであるために兵の集結が遅かった。そのため信長は痺れを切らし、三千 ばかりの兵を連れて天王寺を包囲する一万五千余の本願寺軍に攻めかかった。 また、包囲を突破して砦に入ると、すぐさま砦内の兵と合流して討って出た。 そのため、篭城策を取るものと思い込んでいた本願寺軍は浮き足立って敗走し 石山本願寺に退却した(天王寺合戦)。その後、信長は石山本願寺の四方に付城 を、住吉の浜手に要害を設けて本願寺を完全包囲下に置いた。 経済的に封鎖された本願寺は、毛利輝元に援助を要請。輝元は要請に応じ、 7月15日に村上水軍など毛利水軍の船七、八百艘が兵糧・弾薬を運ぶ為に大坂 の海上に現れた。信長軍はすぐさま、配下の九鬼水軍など三百余艘で木津川河 口を封じたが、毛利水軍は数の利を生かして火矢や焙烙玉(ほうろく・爆弾)、 で信長軍の船を焼き払い、大勝して本願寺に兵糧・弾薬を届けた(第一次木津 川海戦)。信長は仕方なく、三方の監視のみを強化して一旦兵を引いた。 木津川での敗戦後、信長は九鬼水軍の長である九鬼嘉隆に燃えない船を造る ように命じ、嘉隆は船の外装に鉄板を貼った鉄甲船の建造を進めていた。また それとは別に滝川一益にも白仕立ての大船の建造を命じており、1578年6月26日 鉄甲船六隻と白舟一隻の計七隻を中心とした船団が熊野浦から大坂沖に向けて 出航。本願寺はこれを迎え討つべく、淡輪(現大阪府岬町)でこの船団を小船 で取り囲み、鉄砲や火矢で攻撃した。しかし嘉隆はこれをあしらうように応戦 大砲も使って敵船の多くを撃沈した。これに恐れをなした本願寺は、船団に近 寄ることすら躊躇うようになり、船団は7月17日に難なく堺に着岸し、翌日か ら石山本願寺への海路を封鎖した。 11月6日、毛利水軍は六百余艘を繰り出して再び木津川河口に現れた。信長 軍は九鬼嘉隆の鉄甲船を中心として立ち向かったが、毛利水軍はまたも火矢や 焙烙玉で積極果敢に攻撃を繰り返した。しかし、嘉隆は淡輪での戦いと同様に 鉄甲船を相手の大将が乗っていると思われる舟に近づけては大砲を打ち込んで 撃沈するという方法で相手を打ち崩し、ついには毛利水軍の舟数百艘を木津沖 に追い返すことに成功した(第二次木津川海戦)。本願寺は遂に完全包囲下に 置かれて孤立する事態になった。 ○ 講和 1579年12月、本願寺は将来の弾薬や食料の欠乏を恐れ、ついに恒久的な和議 を検討するようになった。そのような状況の中で翌1580年3月1日、朝廷は本願 寺へ勅使を遣わして年寄衆の意向を質し、本願寺は和議を推し進める事で合意 した。閏3月7日、本願寺は信長に誓紙の筆本を提出し、信長と本願寺は三度目 の講和を果たした。 4月9日、顕如は石山本願寺を嫡子で新門跡の教如に渡し、紀伊鷺森に退去 した。しかし、妻子を石山に届けられる兵糧で養っていた雑賀や淡路の門徒は この地を離れるとたちまち窮乏してしまうと不安を募らせ、信長に抵抗を続け るべきと教如に具申し、教如もこれに同調した。故に、顕如が石山を去った後 も石山は信長に抵抗する教如勢が占拠しており、石山を手に入れるという信長 の目的は果たされなかった。 7月2日、顕如は三人の使者を遣わして信長に御礼を行い、信長も顕如に御 礼を行った。これと前後して石山の受け渡しを教如派も受け入れ、8月2日に 石山は信長のものとなった。信長は数刻後に石山本願寺に火を放ち、三日三晩 燃え続けた火は石山本願寺を完全に焼き尽くしたといわれる。 閏3月の講和時、顕如はまだかなりの余力を残して和議に踏み切ったため、 信長は本願寺に相当の配慮をしなければならなかった。しかし、長男の教如が 講和に反して石山を占拠したため、顕如は誓約違反を問われ、信長に対し下手 に立たねばならなくなった。顕如は教如を廃嫡し三男の准如を嫡子と定めたが これが本願寺分裂の原因となった。 ○ 准如(じゅんにょ)(1577年〜1631年)(西本願寺) 本願寺第12世門主。11世門主の顕如の三男で、教如の弟。諱は光昭。 父と対立した兄・教如に代わって門主を継いだ事をきっかけに、本願寺は東西分裂する。 石山戦争の折、父顕如は織田信長と和睦し、1580年に石山本願寺を退去。その後、顕如は 豊臣秀吉に寺地を与えられ大坂天満に移ったが、1591年に秀吉により、現在の本願寺の地で ある京都の七条堀川に、再び寺地を与えられ移転する。これに伴い准如も京都に移るが、翌 1592年に顕如が没するや、秀吉は本願寺勢力をそぐ事を狙い、1593年、准如に本願寺第12世 を継がせる。 西本願寺の言い分:兄・教如は、1580年の石山本願寺退去の折、織田氏への抗戦継続を断念 した父・顕如に背いて石山本願寺に立て籠もるなど父と不仲であり、准如も兄とは異母兄弟で 折り合いが悪かったので、自然と准如が建てられるようになった。准如の母が秀吉に頼み込み 三男の相続が実現したと主張する。次男・興正寺顕尊(教如の同母弟)も准如の後見人として 自分の娘を正室として迎えさせた。 しかし、秀吉の死後、豊臣家を滅ぼした家康は教如を支持し、1602年、教如に烏丸七条に 寺地を与えて東本願寺を建立させる。このため准如が1603年に建立した七条堀川の本願寺は 西本願寺と呼ばれるようになり、本願寺教団の東西分裂が確定する。 ○ 教如(きょうにょ)(1558年〜1614年)(東本願寺) 石山本願寺の第12代門主。諱は光寿。第11代門主・顕如の長男。真宗大谷派の祖。 石山本願寺を退去する父・顕如の命に背き、教如はあくまでも徹底抗戦を主張し、勅命講和 を無視して本願寺に立て籠もって信長に抗戦したため、父親から義絶される。その後、教如は 大和、近江、紀伊、山城、摂津、安芸など諸国を転々と流浪する憂き目に合う。1582年、信長 が本能寺の変で世を去ることにより、ようやく父と和解できた。 1592年に顕如が死去すると、長男である教如は本願寺住職の座を継ごうとするが、秀吉が 横槍を入れる。曰く、かつて父に義絶された事、信長と徹底抗戦した不届きなる経緯等云々。 そして、教如の異母弟・准如を後継者に指名した。 やがて、家康が政権掌握するに至り、家康は一向一揆に苦しんだ経緯から、教如と准如との 争いに介入する。家康は教如に肩入れする。1602年、後陽成天皇の勅許を得て、京都七条烏丸 に東本願寺を建立。これに対し准如も翌年、西本願寺を創設し、ここに本願寺は完全に分裂。 ※ 一大宗教武装勢力は、信長・秀吉・家康の三英傑により武装解除され、為政者らは 東西分裂をもって後顧の憂いを絶った。因みに蓮如は本願寺第8世。 西本願寺(本願寺派) → 三男・准如 → 父・顕如に従う → 秀吉が利用
東本願寺(大谷派) → 長男・教如 → 父・顕如に背く → 家康が利用 |

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