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3月6日、栗原貞子忌 ○ 栗原貞子(1913年〜2005年) 『生ましめんかな』で知られる原爆詩人、反核・反戦詩人。広島県広島市生まれ。 1945年8月6日、爆心地の4キロ北の自宅で被爆、反戦・平和を訴え続けた。 2005年3月6日、老衰のため広島市内の自宅で逝去。享年92。 ○ コラム『中日春秋』(2005.03.08) 「神様、われわれは何をしてしまったのか」。広島に原爆を投下した米爆撃機 「エノラ・ゲイ」の副機長は直後、メモにそう書き残した。 「ぞっとするような光を目にした…、百年生きたとしても、この数分の事は忘れない」と書き、自問している。「いったい何人が死んだのだろう」と。米兵ですら思わず想像して、おののいたように、広島は犠牲者約14万人という惨状だった。そのような阿鼻叫喚の場で新しい命を産まんとする女性がいて、重傷でも命がけで出産を助ける女性がいた。 被爆2日後の8月8日、爆心地から1.6キロ離れたビル地下室。一昨日、92歳で死去した詩人・栗原貞子さんの「生ましめんかな」は、その実話をこううたう。 …かくてくらがりの地獄の底で新しい生命は生まれた/かくてあかつきを待たず産婆は血まみれのまま死んだ/生ましめんかな/生ましめんかな/己が命捨つとも。 この赤ちゃん、小嶋和子さんは今、広島市内で息子と居酒屋を営む。地獄で生まれた命は新たな命を生みだしていた。広島、長崎への原爆投下に至った大戦中の無差別爆撃は、軍も市民もない現代戦の冷酷さを教える。精密攻撃をうたったイラク戦争とて根は同じだろう。 無辜の命が奪われる中での命の誕生は戦争への無言の抵抗にも映る。「生ましめんかな」は人の愚かしさと尊さを訴えてやまない。米が小型核研究を進め、北朝鮮が核武装を告げる時代、詩の思いを胸に刻む責務を思う。「われわれは何をしてしまったのか」とうめく事が二度とないように。 <『生ましめんかな』参照:8月6日、【広島原爆忌】> ○ 連鎖する憎悪、無限連環の殺戮、これを文明と呼ぶのか? 1967年4月3日、ベ平連は米『ワシントンポスト』紙に、ベトナム反戦の「殺すな」という意見広告を掲載する。そこには、栗原さんの次のような文も掲載されていた。 私は広島で肉親と財産を失い、今も後遺症で苦しんでいます。1945年8月6日、広島は人間に対する最初の原爆実験場として使われました。そして今、ベトナムが同じようにアメリカの新兵器の実験場として使われていることを、私は8月6日の体験を通して実感しています。 同じ運命をもつ人間同士として、爆撃にさらされているベトナムの人びとへの、深い連帯の上に立って、私は広島から世界に向って叫びます。「戦争をやめよ、ベトナムに平和を!」と。これに対しては、アメリカからさまざまな反響が寄せられたが、多くの賛成や支持の声の他に次のような栗原さんへの誹謗の手紙も来ました。 「…それから俗悪な栗原オバチャンに言っておこう。『両親はじめ全てを失い、今も放射能で苦しんでます』か。なんてまァ、お気の毒な。俺も涙あふれんばかりだぜ。だけど真珠湾奇襲で息子や夫を殺された何千ていう母親たちはどうなんだ? オバチャンは、黄色いジャップどもが手前の望んだとおりの物を手に入れたんだって言う事を知らねえのか、あるいは判らねえのか。やっつけ返す以外に俺たちのすることがあったのかね」。 嫌悪をこめて。 ワシントン アーネスト・マクドナルド 栗原さんは、『ベ平連ニュース』1967年4月号に投稿「いずれにしても、このような偏見と憎悪に満ちた考え方が米国内にあるということは知っておかねばならないことだと思います」と述べている。 更に、『ベ平連ニュース』67年7月号に「ヒロシマ・ナガサキの体験は最初の被爆地の神聖な使命とし、世界中ですんなりと受け入れられているように私達は今まで思っていたが、今回の反響に見るように相当凄まじいものがある事がわかりました。その事実を知った上で、過去の経験を通じて未来の原水爆戦争を防止するために、自信をもって世界に訴えつづけ、22年前、私だちが経験したような苦しみを苦しんでいるベトナムに一日も早く平和をもたらせるために私たちのできるだけのことをしよう」と書かれています。 『ヒロシマというとき』 栗原貞子 「ヒロシマ」というとき 「ああ ヒロシマ」と、やさしくこたえてくれるだろうか 「ヒロシマ」といえば、「パール・ハーバー」 「ヒロシマ」といえば、「南京虐殺」 「ヒロシマ」といえば、女や子供を壕のなかにとじこめ ガソリンをかけて焼いたマニラの火刑 「ヒロシマ」といえば、血と炎のこだまが返って来るのだ 「ヒロシマ」といえば、 「ああ ヒロシマ」と、やさしくは返ってこない アジアの国々の死者たちや、無告の民がいっせいに 犯されたものの怒りを噴き出すのだ 「ヒロシマ」といえば、 「ああヒロシマ」とやさしくかえってくるためには 捨てた筈の武器を、ほんとうに捨てねばならない 異国の基地を撤去せねばならない その日までヒロシマは、残酷と不信のにがい都市だ 私たちは潜在する放射能に灼かれるパリアだ 「ヒロシマ」といえば、 「ああヒロシマ」と、やさしいこたえがかえって来るためには わたしたちは、わたしたちの汚れた手をきよめねばならない (『ヒロシマというとき』1976年3月) |

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