今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成19年3月8日(木)昨日:首相就任以来初めて小泉氏と懇談。「参院選負けても辞めるな」。


 ○ JASRAC の注意喚起
 http://www.jasrac.or.jp/

 「おふくろさん」のご利用について
 2007.3.7 社団法人 日本音楽著作権協会 (JASRAC)

                       利用者各位

 「おふくろさん」(作詞:川内康範氏、作曲:猪俣公章氏)の歌詞の冒頭に保富庚午氏の
作とされる歌詞を付加したバージョンについては、著作者である川内氏から意に反する改変
に当たる旨の通知がなされており、同氏が有する同一性保持権(著作権法第20条1項)を
侵害して作成されたものであるとの疑義が生じております。

 このため、改変されたバージョンをご利用になりますと、川内氏の有する同一性保持権の
侵害その他の法的責任が生じるおそれがありますので、ご留意ください。また、あらかじめ、
改変されたバージョンが利用されることが判明した場合には、利用許諾をできませんので、
ご了承ください。なお、オリジナルバージョンの「おふくろさん」は、従来どおりご利用に
なれます。

 ※ 川内康範氏(87)は、森進一に対して全曲の歌唱を禁止する意思を表明した。
川内氏は、「私は何があっても、森とは妥協しません」「卑しい心の森には、私のすべての
作品を歌うことは禁止するとの申告をジャスラックに届けてあります」と、怒り心頭の態。
「歌の心が分からないだけでなく、常識が欠落したような人間に私の歌を歌う資格はない」
とし、重ね重ねの公開絶縁宣言。昌子さんと別れて、進一さん、ツキが落ちました。

 福岡県・嘉穂(かほ)劇場でのコンサートが、この11日に予定されているが、当日は、
「おふくろさん」の歌唱は封印するという。川内康範氏のお赦しは当分は無理ですね。



 1944年3月8日、インパールを包囲する「インパール作戦」開始。

 インパール作戦(ウ号作戦)とは、1944年(昭和19年)3月から開始された
日本陸軍によるインド北東部の都市インパール攻略を目指した作戦のことで、
補給線を軽視した杜撰な作戦により歴史的敗北を喫し、日本陸軍瓦解の発端と
なった。 無能な司令官による、無茶な作戦の代名詞としてしばしば引用。

イメージ 1


 ○ インパール作戦

 インド北東部アッサム地方に位置し、ビルマから近いインパールは、インド
に駐留するイギリス軍の主要拠点であった。ビルマ〜インド間の要衝にあり、
日本軍がインドを攻略するあたっては、優先的に占領すべき箇所であった。

 大本営陸軍部は、1943年8月、第15軍司令官牟田口廉也陸軍中将の立案した
インパール攻略作戦の準備命令を下達した。当初、ビルマ方面軍、南方軍、大
本営などの上級司令部全てがその実施に難色を示したインパール作戦であった
が、最終的に認可された背景には、敗北続きの戦局を一気に打開したいという
陸軍上層部の思惑が強く働いたと言われている。また本作戦には、イギリス支
配下のインド独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリ
スをはじめとする連合軍の後方戦略を撹乱する目的が含まれていたことから、
インド国民軍も作戦に投入された。

 しかし、作戦計画は極めて杜撰であった。川幅約600mのチンドウィン川を渡
河し、その上で標高2000m級の山々の連なる急峻なアラカン山系のジャングル内
を長距離進撃しなければならないにもかかわらず、補給が全く軽視されている
ことなど、作戦開始前からその実施には問題点が数多く指摘されていた。それ
でも、物資の不足から補給・増援がままならない中、第15軍令下、3個師団
(第15、31、33師団)を主力とする日本軍は、1944年3月から予定通りに、
インパール攻略作戦を開始した。

 インパール作戦の開始前に、支作戦(本作戦の牽制)として第二次アキャブ
作戦(「ハ」号作戦)が1944年2月に花谷正陸軍中将を師団長とする第55師団
により行なわれた。第二次アキャブ作戦は失敗し、同月26日には師団長が作戦
中止を命令しているが、インパール作戦は何ら修正される事なく開始された。
なお、連合軍は第14軍第4軍団(英印軍3個師団基幹)を中心に約15万人がこ
の地域に配備されていた。

 日本軍は3方向よりインパールを目指し、作戦は極初期のみ順調であった。
しだいにジャングル地帯での作戦は困難を極めた。牟田口が補給不足打開の切
り札として考案した、牛・山羊・羊に荷物を積んで共に行軍させると言ういわ
ゆる「ジンギスカン作戦」は、チンドウィン川渡河時の困難に加えて、行く手
を阻むジャングルや急峻な地形により兵士が食べる前に山羊・羊が次々と脱落
して、たちまち破綻。さらに急峻な地形は重砲などの運搬を困難にし火力不足
が深刻化、糧食・弾薬共に欠乏、各師団とも戦闘力を急速に低下させていく。

 また、この時期、イギリス軍が採用した円筒陣地は、円形に構築した陣地の
外周を戦車、火砲で防備し、日本軍に包囲されても輸送機から補給物資を空中
投下させるものであり、日本軍が得意とする夜襲、切り込みを完全に撃退。こ
れに加え、イギリス軍は迫撃砲、機関銃で激しく抵抗したため、あまりの防御
力の強力さに、インパール急襲を目的とした軽装備(乙装備)中心の日本軍は
全く歯が立たなかった。

 4月に入って雨季が始まり補給線が伸びきるなかで空陸からのイギリス軍の
強力な反攻が始まると、前線は補給路を断たれて飢える兵が続出、死者・餓死
者が大量に発生する事態となり、極度の飢えから駄馬や牽牛にまで手をつける
に至っては作戦続行どころではなくなった。退却戦に入り余りの戦死、戦病死
の多さに、日本兵は退却路を白骨街道と呼んだ。

 第31師団は、インパールの北の要衝コヒマを占領していたが、この状況を危
惧した第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将は作戦継続困難と判断して撤退を進言。
しかし、牟田口はこれを拒絶し作戦継続を強要した。そこで佐藤は、6月初め
に独断で兵力を安全圏まで退却させた。これは師団長という陸軍の要職にある
者が、上官の命令に従わなかった日本陸軍初の抗命事件であり、これが牟田口
の逆鱗に触れ師団長を更迭された。また、第33師団長・柳田元三陸軍中将が同
様の進言をするものの牟田口はまたも拒絶。これまた逆鱗に触れ、第15師団長
・山内正文陸軍中将とともに相次いで更迭される事態となる。本来天皇により
任命される親補職である師団長が、現場の一司令官によって罷免されることは
本来ならばありえないが、後日この人事が問題となることはなかった。

 結果として本作戦は日本軍参加将兵約8万6千人の内、戦死者2から3万人
余り、戦病者は4万人以上(一説には餓死者が多数)を出して7月5日に中止
された。しかしその後、終戦に至るまで、この作戦の失敗の責任が明らかにさ
れることはなかった。陸軍は、佐藤中将が作戦当時、心身喪失であったという
診断を下し、軍法会議を回避した。佐藤中将の撤退の責を問う軍法会議が開催
されることで、撤退理由をはじめとするインパール作戦失敗の要因が明らかに
されるとともに、その責任追及が第15軍、ビルマ方面軍などの上部組織や軍中
枢に及ぶことを回避した。結果的に、3万人の損害を出したインパール作戦の
失敗の責任の所在を陸軍が検証することは最後まで行われなかった。

 この作戦失敗によりアウンサン将軍率いるビルマ軍に寝返られ、結果として
日本軍がビルマを失陥する原因となった。戦後、インパールのあるマニプール
州などのインド東北部は政情不安の為、インド政府は外国人の立ち入りを規制
このため現在に至るも遺骨収集などは進んでおらず、やっと日本政府がインド
政府の協力の下、インパール近郊のロトパチン村に慰霊碑を建立できたのは、
平成6年のことであった。

 この作戦にあたり、東條英機首相は、当初反対の立場であったが、大東亜共
栄圏実現の同志だったチャンドラ・ボースを非常に贔屓しており「あの愛国者
に報いるのも日本の使命だろう」とこの無茶な作戦を実行した。しかし、結果
的にそれは自分と日本の首を絞めるものでしかなかった。


 ○ 白骨街道

 作戦開始以来、第15師団および第31師団には1発の弾丸も、1粒の米も補給
されなかった。無謀極まりない東条の作戦開始であったが、その撤退の決断も
遅すぎた。大本営が第15師団に退却命令を出した1944(昭和19)年7月15日は
すでに雨期に入っていた。日本軍の、ぬかるみの中、飢えと寒気と英印軍の追
撃に苦しみながらの退却は凄惨をきわめた。ジャングル内の道は、軍服を着た
まま白骨化する死体が続き(戦死および戦傷病で倒れた日本軍兵士は72000人、
生き残った兵士はわずか12000人にすぎなかった。兵士はこの道を「靖国街道」
「白骨街道」と呼んだ。

 食料・弾薬の補給が全くない状態で、雨期をむかえようとしていた時、第31
師団長・佐藤幸徳は、独断でコヒマへの撤退を命じ、5月には第15軍司令官・
牟田口廉也のコヒマ死守の命令を無視、コヒマを放棄して補給可能地まで退却
した。この判断は全く正しく、退却した部隊は助かったが、佐藤は直ちに罷免
された。敵前逃亡罪で軍法会議にかけられる筈が、精神錯乱を理由に不起訴処分
となる。かくて、全ての責任は闇に葬られた。


 ※ 責任の所在を曖昧にしたまま、問題を先送りしてゆく手法は、今日の日本にも
連綿と受け継がれております。そして、同じ過ちを果てしなく再生産しております。

  夜が明けるから目覚めるのではない。
  目覚めるから夜が明けるのだ。
  目覚めぬ者に夜明けは訪れない。

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なんとも無謀な、杜撰な戦いだったのですね。死んでいった兵士よ、悲しみの涙をぬぐい、永久に安らかな眠られんことを祈ります。『ビルマの竪琴』という映画を見たことがありますが、あれは一個人の追悼の気持ちをあらわした映画でした。

2007/3/9(金) 午前 10:59 [ kaz*_51** ]


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