今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 平成19年3月9日(金)日朝作業部会:官房長官「成果ないが意味あった」。
 「あうんの呼吸の中で」協議の継続。平成の 御世こともなし 太平楽。


 1868年3月9日、山岡鉄舟が駿府城で西郷隆盛と会見する。

 ○ 山岡鉄舟(1836年7月23日〜1888年7月19日)

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 幕末の幕臣、明治時代の政治家。鉄舟は号。通称鉄太郎(鐵太郎)。諱は高歩
(たかゆき)。千葉周作門下の剣客で、江戸幕府剣術世話役。勝海舟、高橋泥舟
と共に「幕末の三舟」と称せられる。

 天保7年(1836年)6月10日、江戸本所に御蔵奉行小野朝右衛門高福の四男と
して生まれる。母は塚原磯女。飛騨代官となった父に従い、幼少時を飛騨高山
で過ごす。書家で弘法大師流入木道(じゅぼくどう)51世の岩佐一亭に学び、
15の歳に52世を受け継ぐ。父の死に伴い、江戸へ出る。安政2年(1855年)講武
所に入り、千葉周作について北辰一刀流の剣術を学ぶ。また同時期、山岡静山
に槍術を学ぶ。静山急死のあと、静山の実弟・謙三郎(高橋泥舟)らに望まれ
山岡家の養子となり、静山の妹英子と結婚。

 文久3年(1863年)浪士組(新撰組の前身)取締役となり、将軍徳川家茂の先供
として京都に上るが、間もなく浪士を引き連れて江戸に帰る。清河八郎は同志
であった。清河暗殺後は謹慎処分。慶応4年(1868年)精鋭隊歩兵頭格となる。

 江戸無血開城を決した勝海舟と西郷隆盛の会談に先立ち、3月9日、官軍の
駐留する駿府にたどり着き、単身で西郷と面会。この時、官軍が警備する中を
「朝敵・徳川慶喜(よしのぶ)家来、山岡鉄太郎まかり通る!」と大音声で堂々
と歩行していったと言う。西郷との談判において江戸開城の基本条件について
合意を取り付けることに成功。その行動力は、西郷隆盛をして「金もいらぬ、
名誉もいらぬ、命もいらぬ人は始末に困るが、そのような人でなければ天下の
偉業は成し遂げられない」と賞賛せしめた。3月13日・14日の勝と西郷の江戸城
開城の最終会談にも立ち会った。5月、若年寄格幹事となる。

 明治維新後は、徳川家達(いえさと・16代当主)に従い、静岡県に下る。6月
静岡藩々政補翼となり、清水次郎長と意気投合「壮士之墓」を揮毫し与えた。
明治4年(1871年)廃藩置県に伴い新政府に出仕。静岡藩権大参事、茨城県参事
伊万里県権令を歴任。西郷のたっての依頼により、明治5年(1872年)に宮中に
出仕し、10年間の約束で侍従として明治天皇に仕える。侍従時代、深酒をして
相撲をとろうとかかってきた明治天皇をやり過ごして諫言したり、明治6年に
皇居仮宮殿が炎上した際は、淀橋の自宅からいち早く駆けつけたなど、剛直な
エピソードが知られている。宮内大丞、宮内小輔を歴任。明治15年(1882年)、
西郷との約束通り致仕。明治20年5月24日、功績により子爵に任ぜられる。
 (致仕:官職を退くこと。)

 剣・禅・書の達人として知られ、剣術では一刀正伝無刀流(無刀流)を起こす。
書も巧みで各地で鉄舟の書が散見される。また禅においても悟りの境地を開き、
禅道の弟子に三遊亭円朝がいる。円朝の咄に大いに満足し、無舌居士の居士名を
与えた。

 明治16年(1883年)維新に殉じた人々の菩提を弔うため東京都台東区谷中に、
普門山全生庵を建立。明治21年(1888年)7月19日、胃癌のために死去、享年52。
全生庵に眠る。戒名「全生庵殿鉄舟高歩大居士」。

  無刀とは、心の外に、刀が無いこと。
  敵と相対するとき、刀に拠ることなく、
  心を以って心を打つ、これを無刀という。

  宇宙と自分は、そもそも一体であり、
  当然の帰結として、人々は平等である。
  天地同根、万物一体の道理を悟ることで、
  生死の問題を越え、与えられた責務を果し、
  正しい方法に従って、衆生済度の為に尽くす。

  自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える。

  敵に至りたるを以って、至極とする。
  敵の好む処に随ひて、勝を得る。

  晴れてよし曇りてもよし富士の山 もとの姿は変わらざりけり


 ※ 山岡鉄舟が明治天皇の侍従を勤めていた頃、多くの旧幕臣は明治政府の下で困窮
著しかった。心を痛めていた鉄舟は、武家の商法を何とか成功させたいと考えており
幾多の援助もして来た。そこで着目したのが、木村安兵衛・英三郎父子の酒種あんぱん
でした。

 明治8年、天皇に奏上して、水戸の下屋敷での花見の席で、天皇に酒種あんぱんを
召し上がって戴く運びとなった。木村父子は、吉野山の八重桜を塩漬けにしたものを
埋め込んだ風味豊かなパンを焼き上げ、これを献上する。

 これを召し上がった天皇はいたく気に入り、殊のほか皇后のお口にも合い、天皇の
「引き続き納めるように」とのお言葉を頂戴する。

 かくて、宮中御用達となった「桜あんぱん」は、旧幕臣の成功例となりました。
木村屋のあんぱんは、西洋のパンと日本の饅頭を合わせたもの。武士の誇りと商いを
融合させる新しい生き方を模索する旧幕臣たちに、希望の光をもたらしました。



 戦時中の昭和18年、縁があって鉄舟の邸趾に小寺院が建立された。名を鉄舟
先生に因んで「鎮国山高歩院」と称す(臨済宗天竜寺派)。開山は京都天龍寺
の関精拙老師(精拙元浄禅師)。昭和22年の暮れに、二代目住職として坐禅と
書と剣の達人であった大森曹玄老師が京都から移り住む。

 もとより檀家が一軒もない寺であり、山岡の屋敷跡のかなりの部分は終戦の
どさくさにまぎれて勝手に人が住むなどして人手に渡り、寺として残ったのは
僅かに二百坪ほど。寺族の生活が成り立たないのは当然で、大森老師は弁護士
会の法曹禅話会や裁判所の調停委員として生活を支えるようになる。また執筆に
講演に、と活躍を始める。

 大森老師が禅の国際化を願って創始した「国際禅道場」は、その理念を宝積
玄承老師が引き継ぎ、亀岡に移ってますます盛んに活動を続け、そしてハワイ
に種を蒔いた超禅寺も活発な活動を続けている。

 カトリックとの交流を深めるために開始した「東西霊性交流」は現在も天龍
寺に引き継がれて20年余にわたり継続している。法嗣のひとり、門脇佳吉神父
(上智大学名誉教授)は「私のような神父にも参禅を認め、禅の室内を終了さ
せてくれたのは大森老師であった。他の老師ではこうはいかなかったろう」と
語っている。現在では門脇神父はミサをたてる傍ら、坐禅をもってキリスト者
を導いている。

 2005年6月4日〜28日、「第10回東西霊性交流」が行われました。
臨済宗、曹洞宗の禅僧とカトリックのベネディクト会の修道士が交換交流し、
修行という宗教体験のレベルで、宗教間対話を重ねた。

 ※ 東西の修行形態の違い:修道院は基本的に終生、院内で暮らす長距離走。
僧堂は通常、数年で退出する短距離走。それぞれの長所を互いに補完することが
肝要。或る修道士曰く、「僧堂の生活はクレイジィー、私たちには無理」とか。
集団生活が基本の堂内でも、彼らには個室が不可欠だった。


 ◇ 今日は、サン(3)たすキュー(9)で、【ありがとうの日】です。
    昨日は、ミツ(3)たすハチ(8)で、【みつばちの日】でした。
    明日は、ミ(3)たすト(10)で、【ミントの日】、苦しいです。

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