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平成19年3月21日(水)未明の緊急渋々会見:10代の服用「とりあえず控えて」厚労省会見。 「安全性に問題はない」という姿勢から一転、10代に対する投与見合わせ方針が決まった インフルエンザ治療薬「タミフル」。21日未明に緊急会見を開いた厚労省は、服用と異常行動 との因果関係を否定しながらも、「慎重に対応してもらいたい」と苦しい説明に追われた。 一方、タミフル服用後に子供が死亡するなどした家族らは、厚労省の対応の遅さを批判。 1951年3月21日、初のカラー映画『カルメン故郷に帰る』が封切り。 ○ 映画『カルメン故郷に帰る』 1951年松竹大船撮影所製作 カラー86分 監督・脚本:木下惠介 出演:高峰秀子、小林トシ子、佐野周二、井川邦子、坂本 武 日本最初の長編カラー映画とされているが「昭和映画世相史」(児玉数夫・吉田智恵男共著) によれば、戦前、大日本天然色映画という会社が「月形半平太」(昭12年、志波西果:監督・ 月形龍之介:主演)などを制作したとある。但し、カラーの仕上げは上出来ではなかった。 リリー・カルメン(高峰秀子)というストリッパーが、すっかり自分は芸術家として名を挙げ たものと思いこみ、同僚のマヤ朱美(小林トシ子)を連れて、浅間山麓の故郷へ錦を飾り村中を 大騒ぎさせるという、木下監督得意の軽快、かつペーソスあふれる喜劇。 「故郷」など数々の唱歌の場面を取り入れ、シューベルトの「未完成」「鱒」「菩提樹」等 の伴奏を挿入して、抒情的な仕上がりにする。 ◇ 「日本初のカラー映画」の苦労話 太平洋戦争終結後、アメリカやソ連から輸入されたカラー映画に刺激され、 日本でも本格的なカラー映画を製作しようとする機運が高まっていた。松竹は トーキーに続く「日本初」を目指し、富士写真フィルムと協力してカラー映画 を製作することに決めた。 しかし、国産のカラー映画は技術やコストの面で問題が山積しており、松竹 と富士写真フィルムは「カルメン故郷に帰る」が『日本のカラー映画』として 耐えうる作品ではないと判断された場合は、カラー撮影そのものをなかった事 にしてカラーフィルムを破棄、従前のモノクロ映画として封切ることも内約し てあった。そのため、カラー用撮影とモノクロ用撮影を同時進行させることに した。(同時進行:同時撮影ではなく、二度、演技したもの。後に発見された モノクロ映画と比べると、微妙な所作の違いが分かる。) 撮影には富士側のスタッフ立会いの下、断続的に試写用プリントを確認しながら 進められた。明るさが必要な為、ほぼ全編ロケーション撮影だった。また俳優陣も モノクロとは違うメイクを施さなければならなかった。 笠智衆は、どんなメイクを施してもおかしな発色になるので、スタッフ一同が 首を傾げるほどであった。撮影と同時に、今後のカラー映画の為に詳細なデータ も蓄積していった。結果は赤・緑の発色に問題があった。赤の発色が強く、草原 シーンでは、草が枯れ草っぽく見えた。 映画評ではまずまず好評であり、興行成績は6800万円(当時)を記録した。 しかしながら、富士の方式では依然問題が多く、後にカンヌ国際映画祭でグラ ンプリを獲得した『地獄門』(大映作品)では、ネガポジ式で発色剤を現像時 に添加する外式発色イーストマンカラー方式によるカラー撮影となった。 『地獄門』の作品は、松竹に「日本初の総天然色映画」の先を越された大映 が、アメリカ・イーストマン・コダック社に碧川道夫などの技術陣を送り込み 「ハリウッドでテストするより日本でテストした方がリスクが少ない」と説き 伏せて、イーストマン・カラーネガの試験的使用権を獲得した。イーストマン カラーとして、この「地獄門」が、世界初の長篇劇場用映画となった。富士が イーストマンカラー方式に追従したのは、1954年のことであった。 ※ 当時の大映作品には、誇らしげに「イーストマンカラー」と表示されて いました。つまり、富士・松竹のカラーなんて、目じゃないぜ、ってカンジ。 なお、「カルメン故郷に帰る」の、同時に撮られたモノクロ版は後に破棄さ れたものと思われていたが、木下の遺品からオリジナルのモノクロ版が発見さ れた。松竹ホームビデオから発売の「木下恵介DVD-BOX」の特典として見る事 が出来ます。 小学校の頃に観た大相撲中継は、もちろんモノクロだった。日本の経済振興
とともに、庶民にもカラーテレビが買えるようになった。(3Cの、クーラー 、カーは無理だったが‥)茄子紺の締め込みが、いつしかとってもカラフルに なり、高見山の花魁並みのケバい締め込みに、相撲ファンは「2倍、2倍!」 驚いたもんだった。 |

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