今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

全体表示

[ リスト ]

 平成19年3月24日(土)昨日:向井さん夫妻の代理出産を、最高裁は「親子」を認めず。

 向井亜紀さん(42)と高田延彦さん(44)夫妻が、代理出産で生まれた双子の出生届を東京都品川区に受理するよう求めていた家事審判で、最高裁第2小法廷は23日「民法に代理出産の規定はないが、民法の解釈では、代理出産で生まれた子の母は、妊娠・出産した女性であり出産していない女性は卵子を提供した場合でも母子関係は成立しない」との初判断を示し、同区に受理を命じた東京高裁決定を破棄する決定をした。出生届の不受理が確定した。

 同小法廷は「親子関係はその国の身分秩序の根幹をなすもので民法で定めた以外は成立を認めないと解釈すべきだ」と述べ、向井さんを実母とした米国裁判所の決定を否定。

 「民法に代理出産による親子関係を定める規定がないのは、想定されなかったためだが、現行民法を解釈すれば、妊娠・出産した女性が母であり、卵子を提供した場合であっても、母子関係の成立は認められない」と述べ、更に「代理出産という民法の想定していない事態が今後も生じうる以上、法制度としてどう取り扱うか検討されるべき。立法による速やかな対応が望まれる」と法整備の必要性を指摘。


 賛否両論メール、不受理の品川区に400件

 最高裁の決定について、向井さん夫妻が出した出生届を不受理とした東京都品川区は23日「決定文をみていないのでコメントできない」と慎重な姿勢を見せた。昨秋の東京高裁決定の後、同区には「生まれてきた子には何の罪もない」「他人の体を使った出産は倫理上認められない」など賛否合わせて計400通以上のメールが寄せられていたという。

 同区が、東京高裁の決定を不服として、最高裁に許可抗告するための申し立てをしたのは昨年10月。直前の区長選で初当選した浜野健区長は、「戸籍制度は全国統一の制度であり、品川区だけで判断すべきではないと考え、法務省とも協議した」と説明。「生殖補助医療の進歩と国民意識のスピードは必ずしも同じではない。更に議論を深める必要がある」と付け加えた。

 ※ まことに、「生まれてきた子に何の罪もない」。だからこそ「母」はその子の将来にわたっての目配りが不可欠。見切り発車するような行為は批判されるべきだろう。同時に、なぜこれ程までに、「血」のつながりに拘らなければならないのか。「母」をせつに求める子どもらが、一日千秋の思いで待ち続けているのに。「親子」とは、「血」に依存するものではなく「愛」に依存するものと信じる。「血の通った」よりも、「愛のこもった」へ。

イメージ 1



 1951年3月24日、マッカーサーが朝鮮戦争で、「中国本土攻撃も辞さぬ」と声明。
 マッカーサー国連軍最高指令官とトルーマン大統領との反目を決定づけた、ひと言。


 ◇ 功成り名遂げた名将軍は、アメリカ大統領を目指した

 日本占領統治期間中、彼自身は1948年のアメリカ大統領選挙に出馬する事を望んでいた。現役軍人は大統領になれないので、速やかに占領行政を終わらせて、凱旋帰国したかった。その為、1947年から彼はたびたび、日本の占領統治は非常にうまく行っている、日本が軍事国家に戻る心配はない、などと声明を出し、アメリカ本国へ向かって占領を終わらせるようメッセージを送った。

 1948年3月9日、マッカーサーは候補に指名されれば大統領選に出馬する旨を声明した。この声明にもっとも敏感に反応したのが、他ならぬ日本人。まち町の商店には、「マ元帥を大統領に」という垂れ幕が踊り、新聞各社は、彼が大統領に選出されることを期待する記事を書いた。

 4月のウィスコンシン州の予備選挙で、彼は共和党候補として登録されるも、どの州でも1位をとることはできなかった。6月の共和党大会では、1094票の内わずか11票しか取れずトーマス・E・デューイが大統領候補に選出された。

 大統領に選ばれたのは現職の民主党・トルーマンだった。マッカーサーとトルーマンは、戦争当時から占領行政に至るまで、ことごとく反りが合わなかった。マッカーサーの大統領への道は閉ざされた。

 その後のマッカーサーは、共産化防止の“鬼”となり、労働争議の弾圧などを強力に推進する。「日本の黒い霧」の季節がやって来る。マッカーサーは、もはやアメリカ国民の視線を気にする事なく、敢然として日本統治を執行する。


 ◇ 朝鮮戦争、勃発

 1950年6月25日、スターリンの許可を受けた金日成、北朝鮮軍が大韓民国に侵攻開始し、朝鮮戦争が勃発。北朝鮮軍侵攻の知らせを受け取ったマッカーサーは、築き上げた平和が、わずか5年で破られたことに衝撃を受けた。

 彼は直ちに国連軍総司令官として戦争を指揮、9月に仁川上陸作戦に成功、ソウルを回復した。その際、中華人民共和国との国境にまで迫ったこともあり、人民解放軍で結成された「義勇軍」の参戦を招いてしまい、その後の戦況は一進一退に陥った。

 ホワイトハウスは、中共の「義勇軍」参戦の情報を知っていながらマッカーサーには伝えなかったとも言われる。 戦地で戦う兵士らも、大きな政治的渦に巻き込まれていたのか。マッカーサーの武勲を懼れるトルーマンの策略だったとしたら、兵士はたまらない。

 1951年3月24日、マッカーサーが「中国本土攻撃も辞さぬ」と声明を出す。

 不利な状況を一気に打開するため、中華人民共和国領となった旧満州に対する空爆、更に核攻撃の必要性までも主張してトルーマン大統領と決定的に対立する。

 1951年4月11日、トルーマン大統領は、マッカーサーを更迭する。

 マッカーサーは、愛妻ジーンと会食していた。解任の通知を受けた彼は、暫く沈黙して、「ジーン、これで帰れるよ」と妻に語った。

 4月16日、マッカーサーは離日した。沿道には、20万人の日本人が詰め掛けた。
毎日新聞、朝日新聞は、マッカーサーに感謝する文章を掲載した。
吉田茂内閣は彼に、『名誉国民』の称号を与えることを決定した。


 GHQ最高司令官マッカーサー、意外にも占領民・日本人に愛された人物。占領下の日本では(Occupied Japan)マッカーサーの指令は絶対だったため「マッカーサー将軍の命により」という言葉が流行するほど。昭和天皇助命には、「マッカーサー恩人説」もある。

よしもとブログランキング

もっと見る

[PR]お得情報

ふるさと納税サイト『さとふる』
11/30まで5周年記念キャンペーン中!
Amazonギフト券1000円分当たる!

その他のキャンペーン


プライバシー -  利用規約 -  メディアステートメント -  ガイドライン -  順守事項 -  ご意見・ご要望 -  ヘルプ・お問い合わせ

Copyright (C) 2019 Yahoo Japan Corporation. All Rights Reserved.

みんなの更新記事