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平成19年4月11日(水)本日:全日空グループ労組がスト突入、国内線136便欠航。 乗員養成などに関する会社側の回答を不服としてストライキを通告していた全日空 グループの「エアーニッポン乗員組合」など4労働組合は今朝の始発から終日ストに 突入する。国内線の約15%にあたる136便が欠航するほか、42便に最大120分の遅れが 出る見込み。国際線への影響はない。 4月11日、石井十次の誕生日 ○ 石井十次 (1865〜1914、社会事業家) 「孤児のため いのちを捨てて働かん 永の眠りの床につくまで」 15歳のとき上京して攻玉舎に学ぶも、1年ほどで脚気にかかり帰郷。16才で内野品子と 結婚。同時に、上江小学校教員になりましたが数ヶ月でやめ、宮崎警察署の書記になる。 この時期、クリスチャンとなる。その後、郷里の苦学生とともに岡山県の甲種医学校に 入学。偶然、大師堂で巡礼者の子供を引き取ったことから孤児教育会を作る。だが教育会 の資金は乏しく、学資の一部やアルバイトで得た金を充てたといわれる。 明治20年頃 彼は孤児救済活動と医者との両立に悩んでいた。郷里では医者になり帰郷 することを望んでいた。そうしたある日、聖書の「人は二人の主に仕うること能わず」と いう聖句に感動し、医学校を退学。医学書を全て焼いて孤児院の仕事に一生をかける事を 決意する。 岡山孤児院の子供たちは次第に増加し、濃尾大震災による震災孤児救済や、東北大飢饉 では800人あまりの孤児を引き取り、院児は多い時には、1200人を超えていました。 明治42年、彼はかねての理想であった教育と開墾を実現する為、以前から購入していた 木城村(現・木城町)茶臼原に分院を開く。開墾は進み、大正2年に水田13町歩・畑46町歩 ・桑園16町歩に達した。これは当時の茶臼原の孤児350名が自給自足できるものだった。 大正元年(1912年)、随時実行していた茶臼原への孤児院移転が、女子部移転をもって完了。 しかし、石井の健康はこの頃から悪化、大正3年1月30日、48歳で生涯を終えました。 奇しくもその朝、岡山の児嶋家(長女友子の嫁ぎ先)から初孫(男子)誕生の電報を受ける。 ◇ 石井十次、決意の言葉 彼は孤児院の仕事に一生をかけると決意した時の心境を、日記に次のように記している。 「6ケ年学びたる医書に石油を注ぎ火を放ち焼き尽くし、全身を孤児院事業にあてり。 これにより心衷に一の苦悶なく、外友人の忠言を止み、全力を天命の事業に傾注する事を 得るに至れり」 孤児院の運営には莫大な資金がかかり、多い時は1ヶ月の生活費が現在のお金で6000万円 にもなった。彼は、当時まだ珍しかった映写機で孤児院の子どもたちを撮影した映像を持参、 全国を駆け回り寄付を集めた。 ◇ 石井十次の三つの方針 自分の部屋に一人ずつ子どもを呼び、悩み事に静かに耳を傾け、石井の考えをじっくり 話すことに努めた。石井はこの対話を「密室教育」と呼んだ。 石井を「お父さん」、妻の品子を「お母さん」と呼ばせる「家族主義」をとる。 子供たちに、ひもじさを感じさせぬよう腹一杯食べさせる「満腹主義」を実践。 |

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