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平成19年4月13日(金)阪神vs中日3連戦:3タテでない事が唯一の収穫。Friday the 13th. 政府は13日午前の閣議で、公務員らが加入する共済年金を2010年度に廃止、サラリーマンの 厚生年金に統合する被用者年金一元化法案を決定した。本当の年金一元化には道なお遥か。 1943年4月13日、「カチンの森事件」が発覚する。 ドイツのラジオ放送が、ソ連領内カチンの森でポーランド人将校4千人の遺体を 発見したと報じた。(ながらく、ドイツに濡れ衣が着せられた事件) ◇ 事件の発端 1939年9月、ナチス・ドイツとソ連の両方に侵攻されたポーランドは敗北し 多くのポーランド人が戦争捕虜になった。1943年に、ドイツ国防軍はカティン 近くの森で溝を発見し、4千人以上のポーランド軍将校・警察官・公務員・元 地主の遺体が埋められているのを掘り起こし、ソ連が彼らを裁判無しで虐殺し たとして非難。 連合国側は暗号解読の拠点であったブレッチェリー・パークで枢軸国の無線 通信を傍受し解読していたため、ナチスが大きな墓の穴とそこで発見したもの について察知していた。ソ連及び赤軍はドイツの主張に反論し、1941年に侵略 してきたドイツ軍によって戦争捕虜のポーランド人たちは捕らえられ、殺害さ れたと主張。 1944年、ソ連はカティンの森を再調査し、死体を再び掘り起こした。同年、 アメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトはカティンの森事件の情報を収集 するためにジョージ・アール大尉を密使としてバルカン半島に送り出した。 アールは枢軸国側のブルガリアとルーマニアに接触し、ソビエト連邦の仕業 であると考えるようになった。ルーズベルトはこの結論を拒絶。彼はナチスの 仕業だと確信していたと言われる。アールの報告は彼の命令により隠された。 アールは自分の調査を公表する許可を公式に求めたが、ルーズベルトはそれを 禁止する文書を彼に送った。アールは任務からはずされ、戦争の残りの期間を サモアで過ごすこととなる。 ◇ 冷戦期の調査 第二次世界大戦後、ポーランド共産党の幹部達はこの事件についてソビエト 連邦のプロパガンダに同調するだけで真相究明はしなかった。1989年にポーラ ンドの共産主義政権が崩壊するまで真実は公にされることはなかった。 1946年、ニュルンベルク裁判においてソ連の検察官はカティンの森での虐殺 についてドイツを告発した。彼は「最も重要な戦争犯罪の内の一つがドイツの ファシストによるポーランド人捕虜の大量殺害である。」と述べた。アメリカ とイギリスが、この告発を支持しなかったので、この問題は扱われなかった。 カティンの森事件について、ニュルンベルク裁判では一言も記述がない。 ◇ 冷戦後の調査 1989年、ソビエト連邦の学者たちはスターリンが虐殺を命令し、当時の内務 人民委員部長官、ベリヤが命令書に署名したことを明らかにした。1990年には ゴルバチョフがカティンと同じような埋葬の跡が見つかったメドノエとピャチ ハキを含め、ソ連の内務人民委員部がポーランド人を殺害したことを認めた。 1992年、ソビエト連邦崩壊後のロシア政府は最高機密文書の第一号から公開 した。その中に、西ウクライナ、ベラルーシの囚人や各野営地のポーランド人 25,700人を射殺するという、スターリン及びベリヤ等、ソ連中枢部の署名入り の計画書や、ソ連の政治局が出した1940年3月5日の射殺命令や、21,857人の ポーランド人の殺害が実行され、彼らの個人資料を廃棄する計画がある事など が書かれたフルシチョフあての文書も含まれていた。 |

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