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平成19年4月16日(月)昨日:ドラゴンズ、不調ながらも、首位譲らず。 エライぞ、ウッズ。鳩山邦夫Jr.が文京区長選に出馬。 父の応援演説の予定なし、黒川紀章氏(73)が援護? 4月16日は、【川端康成忌】です。 1972年4月16日、川端康成が逗子市の仕事場でガス自殺しました。享年73歳。三島の割腹自殺などによる、強度の精神的動揺からとみられた。絶筆は『たんぽぽ』。 ○ 川端康成(1899年〜1972年) めぐまれぬ生い立ち 1899年6月14日、大阪市北区此花町に生まれた。父は栄吉、母はゲン。姉が一人いる。1901年に父が死去し、母の実家がある大阪府西成郡豊里村に移ったが、翌年に母も死亡。祖父の三又郎、祖母のカネと一緒に三島郡豊川村(現在の茨木市)に移る。1906年、豊川尋常高等小学校に入学。 しかし9月に祖母が死去。1909年には、別離していた姉も死亡。1912年、大阪府立茨城中学校に入学するも、2年後に祖父が死去したため、豊里村の黒田家に引き取られて、中学校の寄宿舎に入る。 第一高等学校時代に、“感傷旅行”めいたものをするが、それが後の『伊豆の踊子』に昇華する。旅芸人への、同情・憐憫は、自分自身への感傷とぴたり重なったものだった。その後10年間、川端は伊豆湯ヶ島の湯本館へ通うようになる。 ノーベル賞受賞後発表した作品は、未完となった『たんぽぽ』のほかには、短編が数作あるだけで、ノーベル賞の受賞が重圧になったとも言われたが、川端はノーベル賞受賞用のスピーチ原稿が、遅々として進まず、ストックホルムの担当者が翻訳の時間がないと、騒ぎ出すほどであったとか。あるいは作家としての資質は既に枯渇していたかも知れぬ。 「温泉場から温泉場へ流して歩く旅芸人は年と共に減ってゆくようで、私の湯ヶ島の思い出は、この旅芸人で始まる。初めての伊豆の旅は、美しい踊子が彗星で、修善寺から下田までの風物がその尾のように、私の記憶に光り流れている。一高の二年に進んだばかりの秋半ばで、上京してから初めての旅らしい旅であった。修善寺に一夜泊まって、下田街道を湯ヶ島に歩く途中、湯川橋を 過ぎたあたりで、三人の娘旅芸人に行き遇った。修善寺に行くのである。太鼓をさげた踊子が遠くから目立っていた。私は振り返り、振り返り眺めて、旅情が身についたと思った。」 『湯ヶ島での思ひ出』より 「生前、私に縁遠い人の葬式であればあるだけ、私は自分の記憶と連れ立って墓場に行き、記憶にむかって合掌しながら焼香するような気持になる。だから、少年の私が見も知らぬ人の葬式に、その場にふさわしい表情をしていたにしても偽りでなく、身に負うている寂しさの機を得ての表われである。」 『葬式の名人』より |

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