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平成19年6月13日(水)昨日:年金支給ミスの半数未公表、全国の社保事務所。 社会保険庁の事務処理ミスによる年金の未払いや過払いが、2005年4月から2006年12月までに、全国の社会保険事務所で計320件発生したにもかかわらず、約半数の168件しか公表されていなかったことが、12日の参院厚生労働委員会で明らかになった。 民主党の島田智哉子氏の資料請求に応じ、社保庁が公表した。社保庁は2005年12月、事務処理ミスが起きた場合は、当事者である受給者らに断った上で公表するよう各社会保険事務所に通知した。2006年5月には公表の徹底を重ねて通知したが、大半のケースで通知が守られていなかったことになる。 1948年6月13日、太宰治が愛人・山崎富栄と玉川上水で入水(じゅすい)自殺。 19日に遺体が発見され、その日を命日とすることになり、桜桃忌と呼ぶ。 2005年5月、太宰直筆の葉書が発見されました。叔母きゑの家族に送ったもの。 ○ 太宰 治(1909〜1948、本名:津島修治) 太宰は津軽金木町の大地主津島家に生まれた。津島家は明治維新後に農地と金貸業を基盤として急激に成長した商人地主で、町のど真ん中に広大な邸宅を構えた。小作争議に備えて高さ4メートル余の煉瓦塀で囲んだとされ、小作人は300人にも及んだ。地元では津島家の人は特権階級であり、津島家の子弟は小学校でも特別待遇を受けていたという。 彼は大地主の子である事に罪悪感をいだいており、次第に左翼思想に関心をよせて行きました。弘前高校に入学するが、心酔していた芥川龍之介の自殺に大きな衝撃を受け学業を放棄し、義太夫を習い花柳界に出入りするうち、芸妓の小山初代と知り合うようになる。3年生の冬、自己の出身階級に悩んでか、自殺を図りますが未遂。 その後、東京大学仏文科に入学し、初代との結婚話がまとまった直後に、別の女性と心中を計ったが、女性は死に、太宰だけが生き残る。自殺幇助罪に問われましたが起訴猶予となる。また大学卒業が絶望的であると分かり、都新聞社の入社試験を受けるが不合格となり、鎌倉の山中で首吊り自殺を企てましたが、これまた失敗。(自殺未遂とは、未遂の完遂とも言われる。) さらに、その自殺未遂の翌月、急性盲腸炎などのため、3か月ほど入院している間に、鎮痛のために使った麻薬(パビナール)の中毒となってしまいましたが、この時期、絶望と苦悩を描く「ダス・ゲマイネ」などを執筆しています。次第にすべてが行き詰まり、妻・初代と谷川岳山麓の水上温泉でカルモチンによる自殺を図りますが、やはり失敗。その後、初代とは離婚する。 1938年秋、御坂峠に登った頃から、生活も文学も一変、ようやく沈滞から脱し「姥捨」を書き始める。師と仰ぐ井伏鱒二の紹介で都留高等女学校の教師・石原美知子と再婚し、ようやく安定した生活を送るようになり、素朴で純粋な作風の「富嶽百景」「女生徒」「走れメロス」「新ハムレット」、自身のルーツを見つめた名作「津軽」などを執筆。 戦後はジャーナリズムの軽佻浮薄な民主主義的傾向に失望し、作風はまたまた一転。坂口安吾・石川淳らと共に新戯作派(無頼派)と呼ばれ、「ヴィヨンの妻」「斜陽」「人間失格」など自虐的な作品を執筆した。 太宰のトラブルに満ちた私生活は破滅型作家の典型とも思われるが、境界性人格障害が疑われるとも。感情面の極端な不安定さが特徴で、人間関係に絶えずトラブルがあり、リストカットなど自傷行為や自殺をほのめかしたり、企てることがしばしばみられる。 津軽地方の大地主の家に生まれた彼は左翼思想に接した後、自分の出身階級に悩み、肉親に反発するが、同時にしきりに頼ったりする。見捨てられる事への強烈な不安感から、依存と反発との狭間を激しく往来する悲惨な生涯だったようだ。師と仰ぐ井伏鱒二とも、尊敬はしているが、バビナールという鎮痛剤の中毒になった時、精神病院に強制的に入院させられたことを恨み、人を善か悪かの両極端で見てしまう。 昭和22年(1947年)2月、太宰38歳の時、神奈川県下曽我に太田静子を訪ね、一週間滞在の後、3月上旬までかかって、太田静子の日記をもとに『斜陽』の一、二章を書く。3月、次女里子(作家・津島佑子)誕生。 三鷹駅前の屋台で、戦争未亡人の山崎富栄(28歳)と知り合う。4月、新たに借りた三鷹の仕事部屋で『斜陽』を書きつづけ、6月に完成。11月、太田静子との間に誕生した女児を認知し、治子(作家・太田治子)と命名。単行本の『斜陽』(新潮社)がベストセラーとなる。 ※ 治子を認知した太宰だったが、その応対は極めて冷徹なものだったと言う。太宰曰く、「20年、頑張ってみなさい。20年、頑張れば世間も私生児を認めてくれるでしょう」と。 ※ 1948年6月13日夜半、連載中の「グッド・バイ」の草稿、遺書、伊馬春部に遺した歌などを残し、山崎富栄と共に玉川上水に入水した。命日の桜桃忌は、奇しくも彼の誕生日でもあった。 ※ 太宰のお墓は、三鷹の禅林寺にあります。もともと禅林寺は森鴎外(森林太郎)の墓がある事で有名。鴎外を尊敬していた太宰は「この寺には、森鴎外の墓がある。墓地は清潔で、鴎外の文章の片影がある。私の汚い骨もこんな小綺麗な墓地の片隅に埋められたら死後の救いがあるかもしれない」と述べています。太宰治のお墓は、森鴎外のお墓の斜め前にあります。 太田治子氏と津島家とは、全くの没交渉であるとか。太田さんが娘時代に、父の故郷を訪ねた時、予想外にも津島家当主から本家に立ち寄るように、声を掛けられたと言う。その折、当主は、太田さんの顔をまじまじと睨みつけ、「この顔は津島家のもんだ」とつぶやいたとか。 太宰の暗く沈んだ顔、自らを恥じるような懼れを抱えた顔、時に人を見下す顔。そして必要以上に卑屈な顔。これほど正直な人は居ないかも知れない。世間知を纏わぬ者の憐れさを その身その作で示せる修治。 他郷にてのびし髭剃る桜桃忌 寺山修司(青森出身) |

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今日は桜桃忌ですね。
玉川上水の鬱蒼とした緑が、なぜ太宰を誘い込んだのか、不思議です。
2007/6/19(火) 午後 11:42