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平成19年6月28日(木)ふるさと納税:効果軽微、費用膨大なる選挙パフォーマンス。 ふるさと納税の制度創設を検討する総務省の有識者研究会は27日、反対派の松沢成文知事と賛成派の東国原英夫宮崎県知事を招き意見聴取を行った。松沢知事は、住民税の一部を故郷の自治体に納める方法に対し「受益に応じて負担する地方税の原則に反する」などと反対した。東国原知事は地方の窮状を訴え、制度の具体化に期待感を示した。 松沢知事は、「自治体間の財政力格差は本来は地方交付税で調整すべき。交付税を大幅に削り『格差が出たから地方税で調整しろ』というのは国の責任放棄」と指摘。地方交付税の充実と地方への税源移譲による格差是正を求めた。 さらに納める自治体を納税者が選ぶ方法も「全国1804市町村を数字が行き来すれば膨大なコストが掛かる。社保庁に劣らず事務が大混乱に陥る」と懸念。「ふるさとに貢献する思いを尊重するなら、寄付金の所得控除制度の充実を目指すべき」と提案。 東国原知事は過疎化や高齢化で疲弊する農漁村の窮状を話し、「地方は都市部に人材や食糧を供給し、森林、農地、河川など都市部の住民にも公益をもたらすものを守っている」と説明。ふるさと納税については「国民を巻き込んだ議論でふるさとの大切さや地方の公共性が共通認識となればいい。都市から地方に還元される仕組みを通じ、国民レベルの意識形成もはぐくまれると思う」と支持した。(そのまんま 人気者とて 利用され。) 6月28日は、【芙美子忌】です。1951(昭和26)年の忌日、享年48。 ○ 林芙美子(本名:林フミコ、1903年〜1951年) 自らの貧しい生い立ち、放浪の経験などを基調に、生々しい実感を伴った表現や人物描写が特徴で、当初は文壇から無視されたものの、やがて受け入れられてゆく。 行商を営む宮田麻太郎と林キクとの非嫡出子として生まれる。麻太郎とキクとの離別後、母キクとその結婚相手である沢井喜三郎(養父)と共に九州各地を行商で転々とし、貧困の日々を過ごした。(オイッチニィの薬屋さんとか、かなり怪しげな商品を扱い、警官に追われることもあったようだ。) 青春期を過ごした広島県尾道では文才を発揮し、恩師の勧めもあり尾道市立高等女学校(現広島県立尾道東高校)に進学し、文筆の道を志す。卒業後は岡野軍一を頼って上京。職を転々としながら友谷静栄と共に詩誌『二人』を創刊。俳優の田辺若男や詩人の野村吉哉と同棲したり、詩人岡本潤、壺井繁治らとの交友があった。 1928年から雑誌『女人芸術』に19歳から23歳頃までの多感な放浪の日々を書き綴った私小説『放浪記』を連載し、1930年に単行本として出版され当時のベストセラーとなった。その後、『続放浪記』『放浪記 第三部』も出版されている。 戦時中は報道班員となり、中国やフランス領インドシナに従軍。戦後も多くの小説・随筆を発表し、「晩菊」で女流文学者賞を受賞。1951年、朝日新聞に『めし』を連載中に、心臓麻痺のため急逝。東京都新宿区にある当時の住居は「林芙美子記念館」として公開されています。 ※ 林芙美子は、ちょっと親分肌なところがあったようで、小学生のように小柄だったが、私が引き受けましょうと言ったら、きちんと面倒をみた。対照的なのが太宰で、大見得をきることはあっても、行動を伴わないダメ人間だった。太宰が林芙美子に面談した時、太宰は、あなたの作品が好きですと世辞を言った。林は大いに喜び、何をお読みになられましたかと聞くが、太宰は何も読んでおらず、答えられなかった。 平林たい子は、林芙美子を冷淡に批判している。平林自身、かなり苦労しているのに、林を見る眼は実に冷たい。「林の父親はテキヤであり、まともな人間ではない」などと、差別的な物言いをして憚らない。太田治子さん曰く、「平林さんはイジワルですね」。 壺井栄が林を批判して、あの人はわざとらしく泣いた、そのくせ肝心なところでは泣かない、との記述あり。私は「二十四の瞳」が好きでしたので、意外でした、がっかりしました。林さんは感動して泣く。夫に殴られている時など、泣けるような状態ではありません、自分の身を守らなければなりません。壺井栄さんは、そのことが分からないのかなと、…私にはわかりません。(太田治子・談) ◇ 『放浪記』遺文 林芙美子の父・麻太郎は中々イイ男で、暴力を振るうこともなかったが、妻妾同居の時期もあった。キクは内縁関係であり、麻太郎は後妻に芸者上がりの「はま」を迎えた。養父・沢井は粗暴な性格だったようだ。 『女人芸術』に放浪記を連載して暫くすると、麻太郎が林を訪ねてきた。父親は「放浪記」を読んで、芙美子は自分と離れてから、こんなにも苦労していたのかと、詫び言を言った。当時の麻太郎は商売が順調で、地元では成功者であったようだ。林の面倒を見てもよいという、麻太郎の申し入れを断った芙美子だが、その後、「放浪記」の連載が書けなくなってしまう。(「女人芸術」への連載は、三上於莵吉の紹介によるもの。) あるいは、父恋しさの「放浪記」であったかも知れない。父と再会出来た事は嬉しかったに違いないが、「放浪記」執筆の意欲を削いだことも確かだった。そして、晩年の麻太郎は商売も傾き、以前と同じような露天の商いを、酒焼けした顔でしていたとの事です。 林芙美子は自らを、「旅が故郷、私は宿命的旅人」と言う。六歳までを門司<賑やかな町>で育ち、その後、長崎<きれいな町>、佐世保<女の人がきれいな町>と移り住み、福岡の直方に落ち着く。直方は芙美子にとっては、なにやら“くすんだ町”に思えたという。その後、恩師の援助を受けて、尾道の女学校に通った。(<>内は、当時の芙美子の印象) ※ 林芙美子の好みの女性=女優の加藤治子、歌手の笠置シズ子、そして太田静子(「斜陽日記」の作者、太田治子の母)。昭和23年に林は、治子さんを養子にできないかと、相談を持ち掛けたことがあったが、静子さんはお断りになった。林芙美子の雰囲気は高峰秀子、大竹しのぶが似ている。森光子は、はっきり違う。(太田治子・談) |

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林芙美子記念館に行ってみたい!です。私は彼女の作品から、真に文学に目覚めたと言っていいと思います。原節子、高峰秀子、二方ともいい女優でしたね。なかでも原節子の突然の引退は悲しゅうございました。
2007/6/29(金) 午前 9:58 [ kaz*_51** ]