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◇ 伊藤左千夫(1864〜1913) 千葉県山武郡に農家の四男として生まれる。本名、幸次郎。25才のとき東京本所区(現・墨田区)茅場町で独立して牛乳搾取業を開く。屋号は「乳牛改良社」。彼は牛乳業を営むかたわら、短歌を好んで作り、明治33年より正岡子規に師事し、門下生の中心となって作歌活動を続けた。子規が亡くなって後は、「馬酔木(あしび)」を創刊。「馬酔木」廃刊の41年には、「アララギ」を創刊。多くの短歌、歌論を発表し、後進の育成に努めた。その門下からは島木赤彦、中村憲吉、斎藤茂吉、土屋文明ら多くの歌人が輩出した。農民の家族制度や風習にからんでの悲恋や、男女関係のもつれをテーマにした「野菊の墓」「分家」などの特色のある小説も書いている。享年50。 牛飼が歌よむ時に世のなかの 新しき歌大いにおこる ◇ 小説「野菊の墓」 川端康成の「伊豆の踊り子」に並ぶ、映画化人気の高い作品。昭和30年に、松竹が映画化、木下惠介監督「野菊の如き君なりき」。60年ぶりに故郷を訪れた老人が、若い頃の思い出を語る構成で、回想シーンに楕円形の白いマスクを施し、古い写真帳のような構図をとっているのが特徴。民子と政夫役は、有田紀子と田中晋二でした。昭和52年には山口百恵、昭和56年には松田聖子主演で映画化された。 「野菊の墓」あらすじ 政夫は旧家の次男で中学生。15歳の秋、母が病弱なため従姉の民子が手伝いにきた。二人は仲良くなり、それを兄嫁や作女が噂する。祭りを明日に控えた日、母のいいつけで山の畑に出かけた二人は、初めて相手の心に恋を感じあったが、同時にそれ以来、仲を裂かれるようになる。母の考えで中学校の寮に入れられた政夫が冬休みに帰省してみると、民子の姿はなかった。二人の仲を心配した母に説得されて、民子は他家へ嫁いだのであった。やがて電報で呼び戻された政夫は、民子の死を知らされる。民子は政夫の手紙を抱きしめながら息を引きとったと言う。 「野菊の墓」ラスト 親のいいつけで背かれないと思うても、道理で感情を抑えるは無理な処もありましょう。民子の死は全くそれ故ですから、親の身になって見ると、どうも残念でありまして、どうもしやしませんと政夫さんが言う通り、お前さん等二人に何の罪もないだけ、親の目からは不憫が一層でな。あの通り温和しかった民子は、自分の死ぬのは心柄とあきらめてか、ついぞ一度不足らしい風も見せなかったです。それやこれやを思いますとな、どう考えてもちと親が無慈悲であった様で…。政夫さん、察して下さい。見る通り家中がもう、悲しみの闇に鎖されて居るのです。愚かなことでしょうがこの場合お前さんに民子の話を聞いて貰うのが何よりの慰藉に思われますから、年がいもないこと申す様だが、どうぞ聞いて下さい」 お祖母さんがまた話を続ける。結婚の話からいよいよむずかしくなったまでの話は嫂が家での話と同じで、今はという日の話はこうであった。 「六月十七日の午後に医者がきて、もう一日二日の処だから、親類などに知らせるならば今日中にも知らせるがよいと言いますから、それではとて取敢ずあなたのお母さんに告げると十八日の朝飛んできました。その日は民子は顔色がよく、はっきりと話も致しました。あなたのおっかさんがきまして、民や、決して気を弱くしてはならないよ、どうしても今一度なおる気になっておくれよ、民や……民子はにっこり笑顔さえ見せて、矢切のお母さん、いろいろ有難う御座います。長長可愛がって頂いた御恩は死んでも忘れません。私も、もう長いことはありますまい……。民や、そんな気の弱いことを思ってはいけない。決してそんなことはないから、しっかりしなくてはいけないと、あなたのお母さんが云いましたら、民子はしばらくたって、矢切のお母さん、私は死ぬが本望であります、死ねばそれでよいのです……といいましてからなお口の内で何か言った様で、何でも、政夫さん、あなたの事を言ったに違いないですが、よく聞きとれませんでした。それきり口はきかないで、その夜の明方に息を引取りました……。 それから政夫さん、こういう訣です…夜が明けてから、枕を直させます時、あれの母が見つけました、民子は左の手に紅絹の切れに包んだ小さな物を握ってその手を胸へ乗せているのです。それで家中の人が皆集ってそれをどうしようかと相談しましたが、可哀相なような気持もするけれど、見ずに置くのも気にかかる、とにかく開いて見るがよいと、あれの父が言い出しまして、皆の居る中であけました。それが政さん、あなたの写真とあなたのお手紙でありまして……」 お祖母さんが、泣き出して、そこにいた人皆涙を拭いている。僕は一心に畳を見つめていた。やがてお祖母さんがようよう話を次ぐ。 「そのお手紙をお富が読みましたから、誰も彼も一度に声を立って泣きました。あれの父は男ながら大声して泣くのです。あなたのお母さんは、気がふれはしないかと思うほど、口説いて泣く。お前達二人がこれほどの語らいとは知らずに、無理無体に勧めて嫁にやったは悪かった。あア悪いことをした、不憫だった。民や、堪忍して、私は悪かったから堪忍してくれ。俄の騒ぎですから、近隣の人達が、どうしましたと云って尋ねにきた位でありました。それであなたのお母さんはどうしても泣き止まないです。体に障ってはと思いまして葬式が済むと車で御送り申した次第です。 身を諦めた民子の心持が、こう判って見ると、誰も彼も同じことで今更の様に無理に嫁にやった事が後悔され、たまらないですよ。考えれば考えるほどあの児が可哀相で可哀相で居ても起っても居られない……せめてあなたに来て頂いて、皆が悪かったことを十分あなたにお詫びをし、またあれの墓にも香花をあなたの手から手向けて頂いたら、少しは家中の心持も休まるかと思いまして……今日のことをなんぼう待ちましたろ。政夫さん、どうぞ聞き分けて下さい。ねイ民子はあなたにはそむいては居ません。どうぞ不憫と思うてやって下さい…」 一語一句皆涙で、僕も一時泣きふしてしまった。民子は死ぬのが本望だと云ったか、そういったか…家の母があんなに身を責めて泣かれるのも、その筈であった。僕は、「お祖母さん、よく判りました。私は民さんの心持はよく知っています。去年の春、民さんが嫁にゆかれたと聞いた時でさえ、私は民さんを毛ほども疑わなかったですもの。どの様なことがあろうとも、私が民さんを思う心持は変りません。家の母などもただそればかり言って嘆いて居ますが、それも皆悪気があっての業でないのですから、私は勿論民さんだって決して恨みに思やしません。何もかも定まった縁と諦めます。私は当分毎日お墓へ参ります……」 話しては泣き泣いては話し、甲一語乙一語いくら泣いても果てしがない。僕は母のことも気にかかるので、もうお昼だという時分に戸村の家を辞した。戸村のお母さんは、民子の墓の前で僕の素振りが余り痛わしかったから、途中が心配になるとて、自分で矢切の入口まで送ってきてくれた。民子の愍然なことはいくら思うても思いきれない。いくら泣いても泣ききれない。しかしながらまた目の前の母が、悔悟の念に攻められ、自ら大罪を犯したと信じて嘆いている愍然さを見ると、僕はどうしても今は民子を泣いては居られない。僕がめそめそして居ったでは、母の苦しみは増すばかりと気がついた。それから一心に自分で自分を励まし、元気をよそおうてひたすら母を慰める工夫をした。それでも心にない事は仕方のないもの、母はいつしかそれと気がついてる様子、そうなっては僕が家に居ないより外はない。 毎日七日の間市川へ通って、民子の墓の周囲には野菊が一面に植えられた。その翌くる日に僕は十分母の精神の休まる様に自分の心持を話して、決然学校へ出た。 民子は余儀なき結婚をして遂に世を去り、僕は余儀なき結婚をして長らえている。民子は僕の写真と僕の手紙とを胸を離さずに持って居よう。幽明遙けく隔つとも僕の心は一日も民子の上を去らぬ。 漱石の評価 明治39年1月「ホトトギス」に発表した「野菊の墓」は、夏目漱石などの激賞を受け、漱石は左千夫宛に書いた書簡のなかで「野菊の墓は名品です。自然で可哀想で、美しくて結構です。あんな小説なら何百遍読んでもよろしい」と言っている。 ◇ 伊藤左千夫の短歌 牀(ゆか)のうへ水こえたれば夜もすがら 屋根の裏べにこほろぎの鳴く 只ひとり水づく荒屋に居残りて 鳴くこほろぎに耳かたむけぬ 亀井戸の藤も終りと雨の日を からかささしてひとり見に来し しきたへの枕によりて病み臥せる 君が面かげ眼を去らず見ゆ (子規百日忌) 桜ちる月の上野をゆきかへり 恋ひ通ひしも六とせ経にけり (子規先生の忌日) 秋草のいづれはあれど露霜に 痩せし野菊の花をあはれむ 心細くおもふな吾妹汝がいはば 神にも背き世をも捨つべし さ夜ふけの夜空の秋を一人恋ひ 思ひはめぐるあの世この世と 天の川世の目あらはに相逢はむ 恋にしあらば何かなげかむ 産屋住みけながき妻が面痩せの すがすがしきに恋ひ返りすも むらぎもの弱き心はもろもろに 背き能はねば常囚獄(とこひとや)われは わが妻にわが子になごむ情(こころ)ありて 何の心ぞも世に親しまず 今の我れに偽ることを許さずば 我が霊の緒は直にも絶ゆべし わが罪を我が悔ゆる時わが命 如何にかあらむ哀しよ吾妹 明るみに心怖ぢ怖ぢ胸痛み 間なく時なく我れは苦しよ 世の中を怖ぢつつ住めど生きてあれば 天地は猶吾を生かすも 世に薄きえにし悲しみ相歎き 一夜泣かむと雨の日を来し かぎりなく哀しきこころ黙し居て 息たぎつかもゆるる黒髪 あはれ究一郎、命を現世に寄すること僅に十三日、幽かに弱かりし汝が魂、今いづれのところにか迷ふ。明界の一員として、名は国籍に記されたるも汝が命を哀れみ、汝が俤と汝が名とを永遠に慕ふもの、この世に於て只汝が父と母とあるのみ。我れ茲に高く汝が名を掲ぐ。あはれ究一郎、幽魂速かに汝が父母に帰れ。 招魂歌 いきの緒のねをいぶかしみ耳寄せて 我が聞けるとにいきのねはなし かすかなる息のかよひも無くなりて むくろ悲しく永劫の寂まり よわよわしくうすき光の汝がみたま 幽かに物に触れて消(け)にけり 春寒の小夜の火桶を灰掻きつつ 胸のおくがに汝が見ゆるかも うらがなしくとはに眠れるそのみ目を 今ひとたびと覆の衣取り おとろへし蝿の一つが力なく 障子に這ひて日はしづかなり 死にたるとおもへる蝿のはたき見れば 畳に落ちて猶うごめくも 壁の隅に蚊のひそめるを二つ三つ 認めそのまま厠を出でし ◇「ほろびの光」五首(1912年、大正元年11月) おりたちて今朝の寒さを驚きぬ 露しとしとと柿の落葉深く 鶏頭のやや立ち乱れ今朝や露の つめたきまでに園さびにけり 秋草のしどろが端にものものしく 生きを栄ゆるつはぶきの花 鶏頭の紅ふりて来し秋の末や われ四十九の年行かむとす 今朝の朝の露ひやびやと秋草や すべて幽けき寂滅(ほろび)の光 ※ 左千夫の心境一如の境涯を謳う。人間五十年の生涯を終えなむとして、 すべてが美しくもあり、すべてが悲しくもある。 この作品が発表されるや、歌論で鋭く対立していた斎藤茂吉が左千夫を訪ね、
この歌の出来栄えを絶賛し敬礼叩頭した、と伝わる。 |

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先日、矢切りの渡し場から歩いて『野菊の墓』碑へ行ってみました。
小説の情景をイメージさせてくれそうなところに『野菊の墓』碑がありました。 KANA
2007/11/17(土) 午後 4:07 [ kan*mac**_kana ]