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平成19年9月28日(金)昨日:争乱のミャンマーで日本人記者が犠牲に。 27日、死亡したニュースプロダクション「APF通信社」(東京都港区)の契約記者、長井健司さん(50)は、弾圧の様子を撮影中、流れ弾が心臓を貫いた。「誰も行かないところに誰かが行かなければならない」。そう言ってパレスチナやイラクなどの紛争地域に果敢に飛び込んだベテラン記者の死。 外務省から同社に「長井さんではないか」と連絡が入ったのは午後8時過ぎ。約50人の報道陣の前に現れた山路徹社長(46)は「状況がさっぱりわからない」と言うのみ。目は真っ赤に充血し、時折声が震えた。外務省から同社に遺体の写真が送られてきたのは同11時ごろ。「間違いではないか」というわずかな望みは絶たれた。 長井さんは、東京都中野区で一人暮らし。同社との契約は1997年から。「紛争の傷跡や現状を伝えたい」と、パレスチナやアフガニスタン、イラクなどの紛争地域を渡り歩いた。今回は、ミャンマーのヤンゴンに滞在して反政府デモの様子などを取材し、26日夜の日本テレビの報道番組「NEWS ZERO」に、現地から電話でリポートを寄せていた。 9月28日は、島津斉彬の誕生日です。 ◇ 島津斉彬(なりあきら)(1809〜1858) 江戸末期の薩摩藩主 藩政の刷新をはかり、殖産興業、特に洋式兵備の充実につとめた。製錬所、反射炉を設置、日本初の軍艦を建造したほか、紡績機械を輸入して実用化につとめた。将軍継嗣問題では、一橋派の推進者となり幕政改革を企図したが、井伊大老に阻まれる。コレラに罹患、急死する。 開明派の斉彬は薩摩藩家老たちに敬遠され、藩主就任は42歳の時であった。西郷吉之助、大久保一蔵 ら下級武士を藩政に登用し、財政改革に尽力。あわせて洋式近代産業の育成・振興に力を注ぐ。1851年、鹿児島城内に製錬所を建設。ここでは製造実験が行われ、成功したものは鹿児島市郊外の磯地区に工場を建てて、実用化をはかりました。やがて磯には1200人もの職人が働く一大洋式工業団地ができあがり、彼は製錬所を「開物館」、磯の工場群を「集成館」と名づけました。 これにより溶鉱炉、大砲などの火器の製作、ガラスや火薬、電信機やガス灯など、当時の日本では最新技術といわれるものを藩内で製造できる環境を整え、薩摩藩は幕府よりも革新的な富国強兵を実現しようとしていた。城内には電信を架設し、洋式軍艦を建造し、日章旗を日本総国船印として幕府に認めさせるなど、啓蒙君主としてのめざましい治績を残す。 幕政改革では、公武合体論の中心人物として一橋慶喜を将軍に擁立しようとするも、大老井伊直弼によって阻まれる。その手腕を期待されながら、志半ばにして、コレラに罹り急死。 斉彬が勝に遺した言葉、「非常時に小事にとらわれていては、肝心の大事を見失うこともある。上に立つ者は大切な基本だけを押さえ、あとは自由に伸び伸びやらせることが肝要だと思う。そうすれば、新しい可能性も芽生えてくるものだ」。 |

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合掌
2007/9/28(金) 午前 8:16