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平成19年11月12日(月)昨夜:中日がアジア王者に、日本代表が大会3連覇。 ◇ 中日が韓国・SKを破りアジアシリーズ制覇! <中日ドラゴンズ6 - 5韓国SKワイバーンズ>(11日)東京ドーム 先発投手:山井、勝利投手:鈴木、抑え:岩瀬 プロ野球のアジア王座を争う「KONAMI CUP アジアシリーズ2007」(読売新聞社後援)は11日、東京ドームで決勝が行われ、中日が6―5でSK(韓国)を破り、アジアシリーズ初優勝。ロッテ、日本ハムに続き、3年連続で日本勢がアジアを制しました。 11月12日は、洋服記念日です。 1872年(明治5年)のこの日、「礼服ニハ洋服ヲ採用ス」という太政官布告が 発布され和服礼装が廃止となる。これを記念して東京都洋服商工協同組合が 1929(昭和4)年に制定。これとは別に、全日本洋服協同組合連合会も1972年 (昭和47年)に制定。公家・武家風の和服礼装が廃止されました。 関連記念日:服の日 <2月9日> いい服の日 <11月29日> ◇ 毛嫌いされていた洋服 嘉永6年(1853年)、東インド艦隊指令官ペリーが、軍艦4隻を率いて浦賀に来航、日本は開港を余儀なくされますが、当時、信州真田藩の小林重介なる者が次のように書き残しています。 『軍艦の乗組員は一様につっぽ袖の上衣の胸をボタンで留め、服色は黒を最上として紺、浅黄の順とした。股引はどれを見ても、ひだの多い裾の細い小袴で、片方ずつに緋の竪縞が1本はいっているものがある。この姿で船の中を自由自在に歩いている』。 このように洋服の機能性は充分に認めながらも、「南蛮服」「えびす服」「紅毛服」と蔑むニュアンスを含んだ言葉を使っていました。「洋服」という名称が最初に出てきたのは、慶応3年(1867年)の『方庵日記』ですが、過渡期には筒袖、ゴロフク(服地=羅紗を現すゴロフクレンの略)、マンテルとも呼ばれていました。 ◇ 日本初の洋服仕立ては長州征伐の軍服 日本で初めて洋服らしきものが造られたのは1864年、長州征伐のために人足2,000人分の軍服が急遽必要になりました。小伝馬町の幕府御用商人だった上田治兵衛がこの仕事を引きうけたのですが、作り方は判らない、職人はいないという状態での無謀な受注だったようです。 人々も洋服に関心を持ってきますが、幕府には洋服を快く思わない人も多くいたようで、「百姓、町民は異国の服装をしてはいけない」という禁止令を出すほど。しかし軍事力を増強するためには、機能的な洋服を採用することは不可欠で、陸軍、海軍の制服にはいち早く洋服を取り入れました。 その後、明治と年号が変わっても宮中に参内するものは衣冠を正とし、軍服を着た武士の参内は許されず、西洋通の西園寺公望が洋服を着て参内した際には物議を醸しました。かくて明治4年(1871年)の初夏、宮中西の丸大広間にて服制改革を討議する一大評定が行われたのです。集まった関係諸大官の服装と言えば、鳥帽子・直垂(えぼし・ひたたれ)、羽織・袴、筒袖羽織・タッツケ袴と、和洋が入り交り、新旧交替の過渡期をそのまま現わしていたそうです。 ◇ 服制改革大評定 三条太政大臣、『今日は我が国の風俗上大改革とも見るべき重大な議事で、畏れ多くも聖上のご身辺に関することでもあり充分ご審議いただきたい。服装は大礼の根本でもあり、開化進取の方針に従い、この際、洋服に一定然るべしという提案が出ており、これに対して腹蔵のない意見を承りたい』。 後藤象二郎(土佐、ハイカラ第一人者)、『泰西の服は起居進退がいかにも便利である。この際、因循姑息を退け、世界を闊歩する気分を養う上にも大英断をもって洋服を採用すべきである』。だが、薩長土肥出身者が多くを占める当時の政府首脳陣は概ね洋服に好感を持っていなかった。 『単に便利であるとかないの軽薄な理由で以って、伝来の服装を一朝にして改めようとするのは何事であるか。まして外国との交際上必要というのは腰抜けの申し分で、素材を輸入し、製作を外人に依頼するとなれば、貴重な金銀が流出する。洋服と一定すれば天皇の服装も変更申し上げねばならず畏れ多い。ただ一にも二にも外国の模倣をすればよいという考え方はまことに憤慨に堪えない』と強い反対意見が出ました。 ◇ 洋服業界の大恩人・西郷隆盛 緒論激発の納まる頃合を見計らって発した、副島種臣外務卿の意見は評定の空気を一変させる。『洋服は便利であるとかどうかとか、外交上の特質、経済上の損失を説かれるが、微臣の考えを持ってすれば失礼だがこれは末葉の論議である。むかし趙の武霊王が胡の国を制するに胡服を用い大勝したという故事がある。わが国の天業は正義をもって世界に臨むことは、ご一同も異議なきことと存ずる。されば、趙の例に従い、この際世界的な洋服を用いるべきである』と堂々たる意見を述べた。群議を圧し一頭地を抜く卓説でありました。 その時、黙然として語らざるままの西郷隆盛参議がすっくと立ち上がります。西郷さんは衆目を一身に集めたままボソリと、『うむ。いかにも胡服をしてえびすを征すとの副島どんと同じ意見でごわす』と語る。和服党のイメージの強い西郷さんのこのひと言で事実上、評議は決着した。 明治4年(1871年)9月4日、「朕、今断然その服制を改め…」という勅諭が出され、翌年の明治5年11月12日に「爾今、礼服に洋服を採用す」との太政官令三三〇号が布告され、洋服普及に弾みがつきました。明治百年に当たる昭和47年(1972年)に全日本洋服協同組合連合会では、太政官布告の出た11月12日を正式に洋服記念日と定めました。 |

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