今日の出来事ロジー

7月19日は、 河合隼雄 の命日です。

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 ◇ 「さいなら、吉岡さん」

 随分、寄り道をしてしまいました。書いていることもチグハグでございます。仕事の合間に、この手紙を少しずつ書くので、ひどく時間がかかります。お許しくださいませ。いよいよ、あなたにあの辛い事実を、お知らせせねばなりません。

 あの出来ごとが起こったのは、十二月の二十日でした。二十四日がクリスマスなので、私たちは患者さんたちのために、その日は、何かをして差上げる習慣がございます。どうせ、予算の乏しい病院のことですから、大したことはできませんが、せめてこのクリスマスぐらいは、病気のことを忘れてもらいたいと思っています。

 二十日の午後、私は、ミッちゃんに御殿場まで、お使いにいってもらいました。作業でできた鶏卵と刺繍とを、御殿場の理解ある店におさめてお金に替え、それを患者さんたちのお小遣いに、あてているわけでございます。今から思うと、私が行けばよかったのですが、ミッちゃんは、いつもこの仕事を悦んで手伝ってくれましたし、その日、私は他の用事で忙しかったのです。病院の使役をやってくれている島田さんと、三輪トラックに同乗して、出発したのは三時をすぎてました。彼女は例によって、『伊豆の山々』という流行歌を口ずさみ、患者さんたちに、「ミッちゃん。色気発散させてよ、高く売りつけてくれよな」「卵、わらねえように気をつけてくれよ」そう言われていました。

 五時半に、電話がかかってきました。御殿場の警察からです。電話口に出たのは私でした。ミッちゃんの名と、交通事故にあったということ、それから、収容された救急病院の場所を知らされた時、受話器をおろしたあとも、私の手は長い間ふるえていました。それから、どういう風にミッちゃんの所に駆けつけたか、今でも憶えていないほどです。とに角、駆けつけた時、ミッちゃんは既に昏睡していました。出血が多量で、おまけに首の骨が折れているという話でした。足と腕には輸血の針と、鼻には酸素吸入器のゴム管とがさしこまれ、小さな胸が波のように浮きあがったり、沈んだりしていました。

 島田さんの話では、ミッちゃんが鶏卵の箱を大事にかかえて御殿場駅の広場を横切ろうとした時、トラックがバックしてきたそうです。もし何も持っていなかったなら、素早く体を動かして、助かったかもしれません。しかし、患者さんのつくった鶏卵箱を、両手でかかえたミッちゃんは、そのまま、トラックに横むきにねじり倒されたのでした。

 「卵、卵!」、意識がなくなるまで二分ほどの間、ミッちゃんは卵のことばかり言っていたそうでした。患者さんが、不自由な体と神経のきかない手で飼った鶏の卵は、広場の真中に砕かれ、散乱し、黄色く地面に流れていました。ミッちゃんは、その卵の黄身の中に、うつ伏せに倒れたのでした。

 昏睡は、四時間ほど続きました。心臓が非常に丈夫なため、これだけ保っているので、普通ならば、とっくに脈もとまったろうという話でした。カンフルは、たえず打ちつづけて頂きましたが、昏睡からは醒めませんでした。そして、午後十時二十分に、ミッちゃんは息を引きとりました。息を引きとる前に、私は独断で御殿場の教会に電話をかけ、神父さんに来て頂いて、洗礼をミッちゃんにそっと授けて頂きました。

 昏睡している間に、ミッちゃんは一度だけ叫びました。その言葉を耳にしなかったならば、私はあなたに、このような長いお手紙を差上げなかったと思います。私はミッちゃんとあなたが、どういうお知り合いだったか存じませんし、ミッちゃんからも何もその点、聞きませんでした。しかし、昏睡中、ミッちゃんは一度だけ目をぼんやりあけました。そして、何かを探すように手を動かしました。「さいなら、吉岡さん」。

 これが、ミッちゃんのその時の言葉だったのです。それっきり彼女はもう何も言いませんでした。私は、ミッちゃんの遺品を…、といっても小さな古ぼけたトランク一つしかありませんが、川越の家に送ったばかりです。彼女の肌着やスエータを手にとりながら、あれ以来、幾度も考えたことをもう一度、心の中で噛みしめました。もし神が私に一番、好きな人間はときかれたなら、私は、即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人と。もし神が私に、どういう人間になりたいかと言われれば、私は即座に答えるでしょう。ミッちゃんのような人と。・・・・・


 ◇ 吉岡努の感懐

 ながい間、その手紙を見つめていた。読んでいるというよりは、見つめていた。(なんでもないじゃないか。)ぼくは自分に言いきかせた。(誰だって…、男なら、することだから。俺だけじゃないさ。)

 ぼくは、自分の気持ちに確証を与えるために、屋上の手すりに靠れて、黄昏の街を見つめた。灰色の雲の下に、無数のビルや家がある。ビルディングや家の間に無数の路がある。バスが走り、車がながれ、人々が歩きまわっている。そこには、数えきれない生活と人生がある。その数えきれない人生のなかで、ぼくのミツにしたようなことは、男なら誰だって一度は経験することだ。ほくだけではない筈だ。しかし…、しかし、この寂しさは、一体どこから来るのだろう。

 ぼくには今、小さいが手がたい幸福がある。その幸福を、ミツとの記憶のために、棄てようとは思わない。しかし、この寂しさはどこからくるのだろう。もし、ミツがぼくに何か教えたとするならば、それは、ぼくらの人生をたった一度でも横切るものは、そこに消すことのできぬ痕跡を残すということなのか。寂しさは、その痕跡からくるのだろうか。そして亦、もし、この修道女が信じている、神というものが本当にあるならば、神はそうした痕跡を通して、ぼくらに話かけるのか。しかしこの寂しさは何処からくるのだろう。

 ぼくの心にはもう一度、あの渋谷の旅館のことが甦ってきた。蚊を叩きつぶした痕のついている壁。しめった布団。そして、窓の外に雨がふっていた。雨の中を、ふとった中年の女が、だるそうに歩いていた。これが人生というものだ。そして、その人生をぼくは、ともかく、森田ミツという女と交ったのだ。黄昏の雲の下に、無数のビルや家がある。バスが走り、車がながれ、人人が歩きまわっている。ぼくと同じように、ぼくらと同じように・・・。

 『ぼくはあの時、神さまなぞは信じていなかったが、もし、神というものがあるならば、その神はこうしたつまらぬ、ありきたりの日常の偶然によって神が存在するこを、人間にみせたかもしれない。理想の女というものが現代にあるとは誰も信じないが、ぼくは今あの女を聖女だと思っている・・・・・』


 ※ 吉岡努はこの後、『沈黙』のキチジローのように、「神」の影を引き摺って生きてゆくことになるのだろうか。それが「人生の幸福」と言うならば、それは余りにも酷薄な幸福かも知れない。「神」は何故に、人間をこれほどまでに過大評価するのだろうか。自らに似せて人を造り給うた自負ゆえか。


 ◇『わたしが・棄てた・女』、解題

 「・」とは、いかなる謂か? 「わたしが棄てた女」というセンテンスではなく、「わたしが」「棄てた」「女」という三者を現し、その相関関係を意味するもの。

 「わたしが」:神そのもの
 「棄てた」:神の属性(神の沈黙)
 「女」:神の働き(ミツの無私の愛)

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