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平成20年1月3日(木)紅白の視聴率:第1部32.8%、第2部39.5%(関東地区)。 関西地区の視聴率は、第1部(33.2%、前年比4.7ポイント増)、第2部(39.5%、同1.9ポイント増)。 ※ これでもワースト2位などど言われる“オバケ”ぶり。 1月3日は、「ひとみの日」&「かけおちの日」です。 「ひとみの日」 瞳をいつまでも美しくという意味で、「1」と「3」で「ひとみ」。 「かけおちの日」 1938年(昭和13年)1月3日、女優の岡田嘉子と杉本良吉が、 樺太国境を越えてソ連へ亡命したことに由ります。 (杉本良吉は、スパイ容疑で処刑されています。) ◇ 岡田嘉子(1902年〜1992年) 1937年(昭和12年)12月27日、当時売れっ子女優だった岡田嘉子(34歳)と演出家・杉本良吉(30歳)は上野駅を出発。北海道を経て、翌1938年(昭和13年)1月3日、二人は吹雪の中、北緯50度線上にある樺太国境を越えてソビエト連邦に入る。この出来事は、センセーショナルな駆落ち事件として連日新聞に報じられ、「恋の逃避行」と囃されました。両者とも配偶者のある身でした。(日露戦争以降、樺太は北緯50度線を境にその南は日本の領土でした。) 岡田嘉子は人形のようで自由のない日本での女優生活に辟易しており、杉本は日本共産党員で、当時既に日中戦争が始まっており徴兵を逃れるためと、ソビエトの演出家・メイエルホリドの下で演出を勉強する目的で越境しました。 国境を越えた二人に待っていたのは、密入国の罪とスパイ容疑でした。サハリンのアレクサンドロフスク、そしてハバロフスクで拷問を受けます。岡田は1939年9月、10年間の強制収容所送りになります。杉本良吉は、1939年10月に銃殺刑。(その後、岡田には病死と告げられる。)杉本が敬慕したメイエルホリドも、1940年に銃殺されている。権勢欲の権化・スターリンの粛清時代であった。 10年間の収容生活を終えた岡田嘉子は、1948年にモスクワ放送に配属され、翻訳や日本向け放送のアナウンサーとしての仕事につきます。1950年、満州で捕虜になりそのままソビエトに残った俳優・滝口新太郎と結婚。1955年(53歳)、ルナチャルスキ−演劇大学で本格的に演劇を学び始めます。いわば、樺太越境の目的が、この時に果されます。 1971年、滝口新太郎逝去。その頃から望郷の念止みがたく、1972年に滝口の遺骨を抱え34年ぶりに帰国する。羽田空港のタラップをサングラスをかけて降りてくる岡田嘉子の姿は、一部の日本人からは反発を買ってしまいます。 1976年、寅さんの第17作『男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け』に出演し、宇野重吉と共演する。1986年、ソ連でペレストロイカによる改革が始まり、「やはり今では自分はソ連人だから、落ち着いて向こうで暮らしたい」と、杉村春子ら知人の制止を振り切ってソ連へ戻る。 1992年2月10日、岡田嘉子は89歳の生涯を閉じます。遺体はモスクワのドンスコイ葬儀場で火葬され、遺骨は日本に埋葬されます。彼女の死後、杉本良吉の遺骨がドンスコイ葬儀場の墓地のどこかに埋められていることが判明します。「恋の逃避行」の人生は、すれ違いの悲劇で終幕する。 多磨霊園の墓碑には「悔いなき命をひとすじに」と自筆が刻まれています。 ◇ 山田洋次監督のエール 寅さんの第17作目の『男はつらいよ・寅次郎夕焼け小焼け』で、老画家の宇野重吉が若い頃に、愛する岡田嘉子を捨てたことを後悔する場面があります。下を向きながら、とつとつと過去の詫び言を言う宇野重吉。 それを黙って聞いていた岡田嘉子がにっこりと言うのです。とっても、いい台詞です。 宇野重吉「しかし、僕は後悔してるんだ」。 岡田嘉子「じゃあ、仮にですよ、あなたがもう一つの生き方をなすっとったら、ちっとも後悔しないで済んだと言い切れますか。私、この頃よく思うの。人生に後悔は付き物なんじゃないかしらって。あゝすりゃ良かったなぁという後悔と、もう一つは、どうしてあんな事をしてしまったんだろう、という後悔」。 「男はつらいよ 寅次郎夕焼け小焼け」 (第17作目) 予告編 監督・山田洋次が、岡田嘉子の人生に送った、心からのエールだった。 かの人の瞳に映るわが姿 いと美しく恋におちいる |

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