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平成20年3月6日(木)昨日:カブスの福留がメジャー1号、3打数3安打。 バットを折りながら、右越えにアーチをかけた福留。まさに、ダイナマイト!(AP) ダイナマイト級の一発だ! カブスの福留孝介外野手(30)が、ブルワーズとのオープン戦に2番・右翼で先発出場。日本人選手今季1号となるメジャー初本塁打を放つなど、3打数3安打2打点の大暴れ。中日の大先輩で、カブス監督も歴任したジム・マーシャル氏(76)=現ダイヤモンドバックスのスカウト=が「優勝請負人だ」と絶賛。 3月6日は、荒畑寒村忌です。 ◇ 荒畑寒村(1887〜1981)(労働運動家・元衆議院議員、本名は勝三) 神奈川県横浜市永楽町の横浜遊郭内で生まれる。幼少期を現在の横浜市港南区野庭で過ごす。社会主義者の幸徳秋水や堺利彦らが発行する週刊『平民新聞』の非戦論に共鳴、社会主義に接近。その後、行商・新聞記者を経て平民新聞の編集に参画する。1908年、赤旗事件で検挙され入獄するが、結果的に「大逆事件」での検挙・処刑を免れることになった。 出獄後、1912年に大杉栄と『近代思想』を創刊、さらに月刊『平民新聞』を発行するが、サンディカリズムを唱えた大杉とマルクス主義に立脚する荒畑との対立が次第に表面化。大杉と訣別して後は労働組合活動を続けながら、関西で活動。1920年に日本社会主義同盟、1922年に日本共産党の創立にそれぞれ参加。 ◇ 松岡正剛曰く、 だいたい明治末期に日本人が何を考え、何を行動しようとしたかということが、いま、近現代史から抜け落ちている。司馬遼太郎のせいなのか、戦後の大衆心理というものか、幕末維新の群像にはやたらに詳しいのにもかかわらず、明治末期大正前期の日本や日本人のことが見えていない日本人がものすごく多い。これはたいへんな視野欠損というべきで、こんなことではその後の日本のことは語れない。 ごくごくおおざっぱに見ても、次の動向がまったく同じシナリオの中にあったのである。 ひとつ、堺利彦の売文社が動いていくところ。ひとつ、与謝野鉄幹から北原白秋たちが抜けていくところ。ひとつ、学習院の坊ちゃんたちがロダンやセザンヌにうつつを抜かして「白樺」を創刊していくところ。ひとつ、福田英子や平塚雷鳥や松井須磨子らが「新しい女性」に向かっていくところ。ひとつ、キリスト者が日本化していくところ。ひとつ、寒村や大杉が大逆事件にもとづいて日本の社会主義の創発に目覚めていくところ。ひとつ、日本が軍国主義と農本主義と民本主義を同時に開削していくところ。ひとつ、益田鈍翁をはじめ、近代数寄者が次々にあらわれていったところ。ひとつ、天心を承けた横山大観が独自に日本美術院をつくっていくところ。ひとつ、島村抱月・小山内薫らの新劇が近代歌舞伎とともに目覚めていくところ。ひとつ、女学校が次々に創立されて、その脇から竹久夢二のような少女文化の表現が生まれていくところ。 これらがこの時期にぴったり踵を接していたというべきなのだ。この同時性こそが幕末維新にまして、まことに重要なのである。いやむしろ、幕末維新はこういう多様な同時性を失って、結局は政治エネルギーに収束していった。それがここでは逆なのである。そして寒村は、その多様で同時な領域を、実に丹念に、実に好奇心に満ちて、歩きまわっていた。 こうした『寒村自伝』の得がたさは、日本の社会主義の黎明を内側からのインサイドレポートとして読みたかったという当初のぼくの目的を大幅に踏みはずし、まさに自伝のおもしろさを堪能することになったのであるが、読むにしたがって、さらにいくつもの"おつり"に出くわした。たとえば堺利彦という人物の位置だ。 堺が売文社をつくっていなければ、幸徳も山川均も大杉も伊藤野枝も、寒村も安成貞雄も土岐善麿も、かれらのいっさいの連動感が育たなかったとおもえたのは、おもいのほかの収穫で、これはなんというのか、堺利彦が日本の自由社会主義の"髪結新三"だったということなのである。 インチキな知識人やニセモノの革命主義者がいかに多かったかということも、よくわかった。高畠素之や麻生久や茂木久平が「皇国社会主義」ともいうべきをかたちづくっていった経緯も、初めて知った。詐欺まがいの革命商人がいかに横行していたかは、とくに吉原太郎の身辺を通してよく叙述されていて、これはこれで一篇の小説のようで覗き見の参考になった。 もっと参考になったのは「ロシア」というものだ。時はロシア革命進行中。寒村は大正12年に下関を出港して上海に渡り、そこから南京・天津・奉天をへて満州の原野を突っ切り、黒竜江を越えてチタからヤブロノイ山脈・アンガラ河を破ってシベリアを走破、ついにイルクーツクからモスクワに入っている。 これらの旅の一部始終は、『自伝』では「シベリア鉄道旅行記」から「モスクワの見聞」におよぶ100ページ近い記録となっているのだが、そこに克明に記されている革命期の「ロシア」が新鮮だった。まさにトロツキー時代のロシア。すでにレーニンが病いがちになり、スターリンが急速に台頭していた時期で、その間をブハーリンやジノヴィエフが仕切っている。寒村はその真っ只中に乗りこんで、ロシア共産党第12回大会で突然の演説を頼まれる。 その一方で坂の多いモスクワをほっつきまわって、ロシア寺院の偉容に打たれ、工場を訪れてプロレタリアートの"本物"に出会い、理髪店に入ってロシア人の腰の太さに驚き、ロシアの変革に立ち会う。そのうえでボリショイ・オペラとロシア・バレエの壮絶壮麗に目を奪われている。 すでにクロポトキンに憧れた大杉栄もスケッチしようとしたロシアであって、ぼくはそのあたりも読んでいたのだが、やはり寒村が詳しかった。加えて、そのころのぼくはさかんに内村剛介さんによく会っていて、ラーゲリ体験と革命期ロシアの歴史実情をさんざん聞かされていたのに、何が何だかわからなくなっていた。そこへ寒村がみごとな20世紀ロシアをもたらした。そういう順番だったのである。内村さんには悪いが、なんだかスッとした記憶がある。 もっともこのような寒村のロシアを塗り替えたのは、第524夜にも書いておいたように、五木寛之の世代が颯爽と登場してからのことになる。それまでは寒村のロシアこそが、日本のロシアであったのだ。なんだかいろいろの感想が交じった『寒村自伝』体験の話になってしまったが、かくのごとく、自伝というもの、わが「一冊のアリナミン」だったのである。 (松岡正剛の千夜千冊、第五百二十八夜『寒村自伝』上・下より) ◇ 平田精耕管長、天龍寺で津送(3月6日) 1月9日に83歳で遷化された臨済宗天龍寺派管長・平田精耕師の本葬にあたる「津送(しんそう)」が6日、京都市右京区の天龍寺の法堂でしめやかに営まれた。生前に親交が深かった千玄室・裏千家前家元が献茶。続いて宗派や友人を代表して京都大名誉教授の上田閑照氏ら4人が弔辞を述べ、「胸襟を開いて人を包み込む庶民的な方でした」「禅と哲学の究明に力を尽くし、東西の思想交流に重要な役を果たされた」と故人を偲んだ。臨済宗の僧侶ら来賓約450人が焼香。法堂の前にも焼香台が設けられ、市民らが遺影に向かって静かに手を合わせていた。 |

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