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平成20年4月11日(金)昨日:SF聖火リレーはアリバイ作り? 隠密裏(=秘密裏)。 ロンドン、パリで妨害行為の的になった北京五輪の聖火をどう守るか。9日に北米唯一の聖火リレーが行われた米サンフランシスコ市当局の答えは「ルートを丸ごと変更する」。聖火が新ルートに移った後も、元ルートの観客には一切、知らせない「隠密作戦」。市民からは不満の声も上がった。 ルートは予告なしに変更された。昼すぎに開会式が始まると、聖火と走者は近くの倉庫に。「聖火が消えた」。騒ぎが広がる中、約40分後にチベット人の間に携帯メールが出回った。「別の通りで聖火リレーが始まった」。そのころ聖火と走者は大型バンで約4キロ離れた通りまで搬送され、厳重な警備の中、観光名所のゴールデンゲートブリッジ(金門橋)に向かってリレーを進めていた。 携帯電話に届く聖火の位置情報を元に、チベット人たちは後を追い、間に合った一部が歩道上から「中国は恥を知れ」などと叫び声を上げた。目撃者によると、走者の1人が途中でチベットの旗を取り出し、その場で聖火を取り上げられたという。 聖火が別ルートに向かった後も、元ルートの警官隊は動かない。そればかりか、わざわざ配られたヘルメットをかぶり始めた。「囮(おとり)」だった。 公式ルートと別に、周到に準備された「別ルート」だったことは間違いない。同市のニューソム市長は地元紙に「市警本部長と相談してルート変更を決めたのは午前11時ごろだった」と語った。混乱を警戒して、少なくとも3人の走者が当日までに辞退した。賛成派と反対派双方の裏をかいた結果、聖火リレーは大きな衝突のないまま終わった。(聖火リレーは、ほんとうに、終わった。) 聖火を待ちわびた沿道の一般市民は「朝から待っていたのに」と落胆を隠さなかった。同市議会のペスキン議長は「秘密裏に進める市長のやり方は中国と一緒」と批判。他方、在米チベット人組織で構成する「チーム・チベット」は閉会式を中止に追い込んだとして「勝利宣言」を出した。聖火はリレー終了後、ただちにサンフランシスコ国際空港に移され、次のリレー開催地であるアルゼンチンのブエノスアイレスに向かった。(今や聖火は、紛争の“火種”となった?) ※ 隠密裏に「聖火リレー」を「成功」させたサンフランシスコは、一体なにを守ったのだろうか? 北京五輪の不愉快な輪郭が、しだい次第に明らかにされてゆく「聖火リレー」になっているようだ。人権を抑圧し、信教の自由すら認めない中国の「平和の祭典」とは、いかなるイメージ(心象)なのだろうか? 一党独裁の国に、五輪主催国の資格がそもそもあるのだろうか? 1980年のモスクワ五輪ボイコットがいいとは、決して思わない。でも、北京五輪が「大成功裏」に終わってほしいとも願えない心境ではある。 4月11日は、法隆寺「夢殿秘仏救世観音特別開扉」です。 日 時:4月11日(金)〜5月18日(日)8:00〜17:00 場 所:法隆寺東院伽藍内夢殿(奈良県生駒郡斑鳩<いかるが>町) 交 通:JR大和路線10分で法隆寺駅下車、徒歩約20分 費 用:中学生以上 1000円、小学生 500円 (西院伽藍内、大宝蔵院、東院伽藍内共通) 問合せ:TEL 0745-75-2555 ◇ 法隆寺(聖徳宗本山) 法隆学問寺、斑鳩(いかるが)寺(鵤寺・伊可留我寺)とも称す。推古天皇・聖徳太子創建の七ヶ寺の一つで、南都七大寺あるいは十五大寺の一つとされる。伽藍は西院と、夢殿を中心とする東院の二つに区画される。 『日本書紀』には606年(推古14)7月、斑鳩寺に水田百町を施入したとある。金堂の薬師如来光背の銘文には推古15年(607年)用明天皇の遺命によって、聖徳太子が創建したとするが、確定的ではない。ただ最初の法隆寺が推古天皇の時代に建立されたことは疑いない。太子の私寺として建立された法隆寺は、648年(大化4年)に寺封3百戸が施入されたが、678年(天武7年)には支給が停止されている。670年(天智9年)に一屋余さず焼亡。711年(和銅4年)頃には今日みる西院の寺観が整備されたものと思われる。 法隆寺には、律・三論・唯識(法相)・別三論の4宗の宗団があり、研究が行われていた。鎌倉時代には後白河院・源頼朝の帰依もあったが、中期以降に顕真得業による太子信仰の高揚や慶政による修理が行われ、慶長年間(1596‐1615)と元禄年間(1688‐1704)の修理を経て,昭和大修理に至っている。 ◇ 夢殿の救世観音 フェノロサによって見出されるまで数百年間、白布でぐるぐる巻きにされていた秘仏。フェノロサが白布を解く時には、寺僧等は悉く逃げ出したと伝えられている。この像は怨念や祟りと関係があったものと思われる。通説では行信僧都が、739年に聖徳太子を供養するため再建された法隆寺の横に東院伽藍を建て、そこに八角仏殿(夢殿)を建立したとある。 梅原猛氏は「隠された十字架」の中で、「夢殿と救世観音は聖徳太子の祟りを鎮めるため作られた」と述べる。夢殿が建立された時代は、時の権力者である藤原不比等の娘・宮子の産んだ首(おびと)皇子が724年聖武天皇となり、不比等の4人の息子も重要な官職につく藤原氏全盛の時代であった。ところが737年、この4人の息子が当時大流行した天然痘のため、ほぼ同時に死んでしまう。これを聖徳太子の祟りと感じて、翌々年739年、夢殿を建立し太子の祟りをしずめるべく救世観音を作ったのだと梅原氏は説く(太子怨霊説)。 ◇ 太子一族は罪なくして藤原氏に滅ぼされた 「太子一族の殺害を蘇我入鹿にさせ、それを口実に蘇我氏本宗家の滅亡を企てた藤原氏が、藤原不比等以後の藤原四兄弟の死などを、太子怨霊のために祟り殺されたと恐れ、法隆寺を再建し、太子の写し身とされる救世観音の頭部に杭を打ち込んで怨霊封じをした」と言うもの。 光背は通常背中から支えられるが、救世観音は頭部に直接釘が打ち込まれている。さらに、救世観音の胸にも釘が打ち込まれている。脱活乾漆のこの仏像の、十字の木組みの真ん中にも釘が打ち込まれている。 4月11日は、「ガッツポーズの日」です。 1974年4月11日、ボクシングWBCライト級タイトルマッチで挑戦者の ガッツ石松がチャンピオンのロドルフォ・ゴンザレスに対しKO勝ち。 ガッツ石松の喜びのポーズを、記者が「ガッツポーズ」と表現した。 (じゃによって、ガッツポーズは日本語です。ガッツ伝説の嚆矢) |

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