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平成20年4月17日(木)昨日:国民年金保険料をパート給与から天引き。 保険料未納が3割を超えている国民年金について、厚労省は保険料をパートの給与から天引きする方針を固めました。低所得者には自動的に保険料を免除することにします。 1616年4月17日(旧暦)、徳川家康逝去。 1616年(元和2年)陰暦4月17日、逝去、享年74。駿府久能山に葬られたが、翌年日光山に改葬、日光東照宮が建立された。 ◇ 徳川家康、天ぷら死亡説 家康が食べたとされる「鯛の天ぷら」とは、当時京の都で流行していた食べものだとのこと。今の天ぷらとは異なり、鯛を栢(かや)の実の油で揚げ、それをさらに煎り、その上にニラの摺ったものをかけたもので、正確には「天ぷら」ではなく、から揚げの一種のようです。 京の豪商、茶屋四郎次郎という人物が、この食べ物が京で流行していることを家康に教えたそうで、興味を持った家康は早速に作らせてそれを食べ、その日の夜に激しい腹痛をおこしたとのこと。一旦は快方に向かっていたとも。天ぷら様のものを食べたのが1616年1月21日。逝去が4月17日午前10時とか。その間に、家康は勅使を供応しており、「天ぷら犯人説」は濡れ衣かも知れません。 家康の死因は「腸カタル」とか「悪性の胃腸病」という説もあります。あるいは癌だとも。本人が迫る死期を知ればこそ、豊臣氏を無理やりにも滅亡させたのだとも言われる。 てんぷらをこはごは食べる家康忌 (荻上紘一) ◇ 家康の神号 家康死後に神号を巡り、南光坊天海(慈眼大師)と金地院崇伝(黒衣の宰相と称された辣腕の僧)とが論争する。天海は「権現」として「山王一実神道」で祭ることを主張、崇伝は家康の神号を「明神」として「吉田神道」で祭るべきだと主張した。 天海は二代将軍となった秀忠の諮問に対し、「明神」は豊国大明神として豊臣秀吉に対して贈られた神号であり、その後の豊臣氏滅亡を考えると不吉であると提言したことで「権現」に決定。のちに朝廷より「東照大権現」を賜る。これを契機に、崇伝の政治的影響力は衰えていった。 ※ 山王一実神道(さんのういちじつしんとう) 山王神道は、平安末期から鎌倉にかけて、天台宗の総本山である比叡山延暦寺で生まれた神道の流派であり、狭義には江戸時代の天海より以前のものを山王神道と称す。「山王」とは、霊山を守護する神霊のことで、比叡山の地主神である大山咋神(おほやまくひのかみ)を指す。大山咋神に対する信仰(山王信仰)と天台宗とが結びついたものが山王神道。山王神は釈迦の垂迹であるとされた。また、「山」の字も「王」の字も、三本の線と、それを貫く一本の線からなっており、これを天台宗の思想である三諦即一思想と結びつけて説いた。天海は山王神道説を発展させた山王一実神道を唱えた。山王一実神道では、山王権現とは大日如来であり、天照大神であると説いた。これには伊勢神道の影響も見られる。 ※ 吉田神道(よしだしんとう) 室町時代、京都吉田神社の神官・吉田兼倶によって大成された神道の一流派。唯一神道、宗源神道とも言われる。兼倶は朝廷、幕府に取り入り神祇管領長上という称を用いて、「宗源宣旨」を以って地方の神社に神位を授け、また神職の位階を授ける権限を与えられ、神道界に大きな力を有した。一時衰退した時期もあったが、江戸期には神道本所として全国の神社・神職をその支配下に置いた。 ◇ 禅林寺(神奈川県横浜市金沢区釜利谷東6丁目40-32) 安永9年(1780)、東照宮より家康公の画像と金銀の御幣・祭祀道具類が禅林寺に下賜された。そのとき添付された書類には、「これらの下賜品は、毎年4月17日に寺の正殿に安置し、領民は丁重に参拝すること。当日参拝の済んだあとは村役人が立会いの上、封印して清浄の場所に保管すること。平日は住職といえども拝見してはならない。」とある。 更に、村の名主と組頭宛にも同日付で通達書が出ている。「坂本村の年貢米のうち1石5升を祭祀料として禅林寺に納めること。その日、領民は農作業を休み参拝すること。神領地内は殺生禁断とすること」というお達しであった。禅林寺では今でも、毎年4月17日を家康忌とし、主要な年中行事として現在も守り続けています。 4月17日は、「なすび記念日」です。(冬春なす主産県協議会が2004年に制定) 4月が冬春ナスの最盛期であること、4月にナスが好物であった家康に献上されていた事、家康の命日が旧暦の4月17日であることによります。無理な語呂合わせで、「ヨ(4)イ(1)ナ(7)ス」(ナスの「ス」は無す)。 |

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