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平成20年5月20日(火)四川大地震:日本救援隊の黙祷に中国のネットユーザが感動。 「地震犠牲者に黙祷を捧げる日本の救援隊」の画像はネットユーザに大きな議論を引き起こし、彼らの多くが日本の救援隊の四川被災地区における行動に感動したとコメントしている。また、中国人民はナショナリズムという狭い観点を乗り越え、日本の救援隊による被災者の救済活動を理性的に評価すべきだと呼び掛けるネットユーザもいる。 18日付「新快報」が伝えた。 ※ ネットユーザの大議論の引き金となった写真 ネットユーザが8日、各フォーラムサイトに転載した写真は、多くのネットユーザによる様々な議論を引き起こした。日本の救援隊の行為を「偽善」だと主張したのは少数派で、彼らのほとんどは、今回の日本救援隊による救済活動に敬意を表し、日本に対する印象がかなり変わったと見受けられる。 ネットネーム「浅酔天涯」氏は、日本救援隊に対する一部のネットユーザの懐疑的な視点に対して、常に相手の身になって考えることが大切ではないかと提議、「過去に忘れる事ができないほどの深い傷を受けたとしても、今回の地震被災に対して日本国民が示した善意を無視してはいけない」と主張する。 立場を逆にした場合、中国人が日本の地震被災者に自分のささやかな善意や貢献を示し、このような反応が得られたら、どんな気持ちになるだろうか。 5月17日7時25分の時点で、かれらの救助活動は16時間に及び、四川省青川県喬荘鎮の倒壊した6階建てビルから犠牲者の遺体2体を発見した。 ネットネーム「有愛就有一切(愛こそすべて)」氏は、別のネットユーザ「江海寄余生」氏が発表した「日本の救援隊による救助活動を理性的に評価する」という評論を転載した。「江海寄余生」氏の文書概要は以下の通り。 「中日両国民は、有り余るほどの愛と恨みの感情をそれぞれ胸に秘めている。しかし、ブン川の地震発生後、日本政府・国民は他国と同様、中国人民に最も深い関心と同情の意を示した。彼らはお金や物品の寄付だけにとどまらず、優秀なメンバーと強力な指揮力を擁する国際救援隊を組織し、四川被災地に直接入り、救援活動を行った。被災者の救済に向け、一刻の猶予も持たず、最も優秀なメンバーを派遣、最先端の器具・設備そして優秀な救援用警察犬を持ち込んだ。これらは全て、日本国民が中国人民の苦難をまるで自分の事とし、中国被災者の救援は自国国民の救援と同じだと見なした結果といえよう。このような崇高な人道主義精神とインターナショナリズムに対し、全中国人は十分な敬意で応えるべきだ」。 この期に及び、私はようやく「いまや、我々はすべてブン川人だ」という言葉が持つ真の意味を完全に理解した。天災に見舞われた時、この地球に住む人々の間の、肌の色、人種、性別、国籍による区別は消え去る。そして我々は全員同じ「地球人」となる。(「人民網日本語版」2008年5月19日) ※ ブン川県(ぶんせんけん)= 四川省アバ・チベット族チャン族自治州の東南部に位置する。総面積4084平方キロで森林面積はうち48%。県の中心は海抜1326メートル。総人口約11万人で、漢族約56%、チャン族約28%、チベット族14%の構成になっている。県内の臥竜自然保護区には野生のジャイアントパンダやキンシコウなど希少動物約30種が生息。1980年には臥竜パンダ研究センターが設立された。震源の県中部・映秀地区は水力発電工業区で、大型から小型まで水力発電所が約20カ所ある。 5月20日は、西田幾多郎の誕生日です。 ◇ 西田幾多郎(1870〜1945) 「人は人吾はわれ也とにかくに吾行く道を吾は行くなり」 西田幾多郎は昭和20年6月、75歳で没するが、その生涯は禅とともにあった。西田の思想の根底には一貫して「禅」と「無」が横たわっていた。西田の禅の師は雪門玄松、生涯の友は鈴木大拙だった。大拙は、明治の傑僧・今北洪川に師事している。 ※ 雪門玄松(1850年〜1915年):明治の禅僧、富山県高岡・国泰寺の管長をつとめ、若き日の西田幾多郎、鈴木大拙らも参禅した高僧だが、その生涯は謎に充ちている。管長の座を捨て在家禅を唱導、さらに不可解な還俗ののち、若狭の寒村で乞食僧として没す。西田は1898年3月17日、雪門の下で受戒し、寸心の法号を授かっている。 西田は、不動の坐禅が立ち上がったまま(出定)のかたちで哲学できないかと観じた。そこに欧州哲学のすぐれた論理をとりこんで、「無」の哲学を構築できないかと思索する。西田は30歳前後、一日に十数時間を只管打坐して、そのあいまにダンテの『神曲』に耽った。 中江兆民(1847年〜1901年)は「わが日本、古より今に至るまで哲学なし」と嘆いた。その十年後のこと、『善の研究』が刊行される。日本哲学の誕生とも言える。西田は『善の研究』を書く直前の明治40年(1907年)、次女と五女をあいついで亡くした。ここで覚悟が生まれた。「名利を思うて煩悶絶間なき心の上に、一杓の冷水を浴びせかけられた様な心持がして、一種の涼味を感ずると共に、心の奥より秋の日の様な清く温き光が照して、凡ての人の上に純潔なる愛を感ずることが出来た」「特に深く我心を動かしたのは、今まで愛らしく話したり、歌ったり、遊んだりした者が、忽ち消えて壷中の白骨になると云うのは、如何なる訳であろうか。若し人生はこれまでのものであるというならば、人生ほどつまらぬものはない。此処には深き意味がなくてはならぬ」。 西田は、自分の主観と客観がまだ分かれる以前の、また知・情・意の区別もまったくない「純粋経験」を想定する。『善の研究』の冒頭に、「たとえば、色を見、音を聞く刹那、未だ主もなく客もない」と書く。(見色明心、聞声悟道) 西田はこの「純粋経験」が発展した宇宙的なるものを「神」と見なし、またそれを人間が獲得しえた時のものを「善」と見なした。西田は直観を「主客の未だ分かれない、知るものと知られるものと一つである、現実のままな、不断進行の意識」というふうにとらえたのだ。純粋経験が原初の状態から意識の状態まで進んで、そこに直観が生じていると見た。そこはきっと「無から有が生ずる創造作用」の原郷なのである 『善の研究』が孕む胚種と、その発芽は日本の哲学不毛の土壌に一条の光明をもたらしたが、その受け皿となるべき論理や、それを開花させるイメージや説得力に欠けた。西田はゆき詰まりからの脱却を試みる。それが「無の場所」の構想になる。 昭和2年(1927年)、『働くものから見るものへ』を刊行。西田は「場所」を重視する。欧州の「有の哲学」から東洋の「無の哲学」に向かうには、「於いて有る」ということの「於いて」に着目しなければならないと気づいた。この「於いて」が場所である。西田は、これまでの自覚や絶対自由意志を「働く」という動作的な言葉にこめ、直観を「見る」という言葉に集約させる。そして、その直観の対象あるいは受け皿に「無の場所」という概念を導入する。 第64回寸心忌 記念講演会(平成20年6月7日、14:00〜) 演題「命の表現としての創造と救済を引き出す場の働き」 講師 清水博(東京大学名誉教授・薬学博士) ※ 西田幾多郎の法名は、曠然院明道寸心居士。この4月に京都・妙心寺で 開堂なされた、祥福僧堂師家・木村太邦老大師の室号は曠然室で御座います。 |

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はじめまして(*^_^*)
よかったら私のブログに立ち寄ってくださいね^^
2008/5/20(火) 午前 6:45 [ りなちょ ]
はじめまして。「中国」「ナショナリズム」の検索から来ました。この画像は日本人から見たらありがちな写真とも思いますが、外国人の目線からみれば違うように思えるのもわかる気がします。TBを一本つけさせてください。
2008/5/20(火) 午後 1:42 [ KABU ]