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平成20年6月15日(日)昨日:岩手・宮城地震、死者6人、行方不明11人に。 岩手・宮城内陸地震、M7.2「阪神」に匹敵 宮城県栗原市などで震度6強を観測した岩手・宮城内陸地震の被害は14日夜までに、死者6人、負傷者150人超に拡大。工事現場などで土砂崩れに巻き込まれ、少なくとも11人が行方不明になっており、消防などは15日以降も捜索に全力を挙げる。交通網が寸断され一時600人が孤立した。 余震は200回を超えた。気象庁などは家屋の倒壊などに注意を呼び掛けている。政府の地震調査委員会は14日、今回の地震について「地殻内の浅い地震」と分析した。地震の規模を示すマグニチュードは7.2と推定されており、阪神大震災に匹敵する。岩手、宮城両県は継続的な支援が必要な災害として、災害救助法の適用を決めた。 今日は「暑中見舞いの日」です。「父の日」でもあったりして… キャンディーズ「暑中お見舞い申し上げます」 6月15日は、村山 聖の誕生日です。 ◇ 村山 聖(さとし)(1969年6月15日〜1998年8月8日) 将棋棋士、広島県安芸郡府中町出身、森信雄七段門下、「羽生が恐れた男」 5歳の時にネフローゼに罹り、死ぬまで病魔と闘う。当時の治療法は、ただ安静にすることだけ(現在は治療薬があり完治する)。6歳の時に将棋に出会い、めきめき頭角をあらわし、中国こども名人戦で5年連続優勝、飛車落ちでタイトルホルダーを破り、中学一年上京時、偶然出くわした伝説の真剣師・小池重明を破っている。 谷川浩司が名人になる時にプロ棋士を目指す。皆が反対する親族会議で、「谷川を倒すのは、今しかない」と言いきり、反対を押し切って奨励会入りを目指す。1982年、森信雄を師匠とし奨励会を受験、合格するも他棋士とのトラブルで入会が認められず、翌年再受験して入会。入会後、単身で暮らす病身の村山を師匠の森が親身な世話をして支えた。20歳までしか生きられないと宣告されていた村山は、谷川、羽生を上回る2年11ヶ月という猛スピードで、奨励会を駆け抜け、17歳で4段昇段を果し、プロ棋士となる。 彼は10代の終盤で、「名人になって早く将棋を辞めたい」と洩らしている。自分の持ち時間が少ないことを自覚している言葉だった。晩年には、「結婚して子を持ちたい」とも仲間内に語っている。 棋士としての闘争心は非常に激しく、ライバル棋士たちに対しては、盤外でも敵意剥き出しの対応をすることが多かったが、羽生善治に対してだけは特別の敬意を払っていたという。 当時、羽生を筆頭として10代でプロ棋士となった一群の少年らは恐るべき勢いで勝ち進み、新人類棋士、チャイルドブランドなどと呼ばれていた。羽生善治、佐藤康光、森内俊之と村山の4人が、その有力なメンバーであった。この世代は後に羽生世代と呼ばれ、将棋界の中心メンバーとなってゆく。 村山は「怪童丸」と呼ばれ、奨励会員時代から「終盤は村山に聞け」とまで言われたほど、終盤の読みには定評があった。「東の羽生、西の村山」と並び称され、期待されたが、体調不良で不戦敗になったり、実力を発揮できない事もあり、実績では羽生に遅れを取った。 1992年、王将への挑戦者となり谷川浩司王将と戦うも、0勝4敗で屈した。その後、病と闘いながらもA級八段まで昇段したが、血尿に悩まされるなどで順位戦の成績が不振を極め、1997年春、B級1組に降格する。その後、進行性膀胱癌が見つかり入院、片方の腎臓と膀胱を摘出する大手術を受けるが、休場することなく棋戦を戦い続けた。「脳に悪影響がでて将棋に支障がでては…」と、抗癌剤・放射線治療を拒んでいた。そしてこれは将来において、子供が作れなくなることへの危惧からでもあったと言われる。 1997年度の第56期B級1組順位戦を勝ち抜き、最短1期でA級復帰を決める。この時、手術後の復帰第1戦だった順位戦第2局(1997年7月14日)の対丸山忠久戦は、「角換わり腰掛け銀」の激しい展開から総手数173手という、深夜に及ぶ長丁場となる。激戦の結果は丸山の勝ちであったが、病苦に耐えながら指していたとは到底思えない程の激闘・名局として名高い。 同年度はNHK杯戦でも、決勝まで勝ち上がる活躍を示した。決勝の相手は羽生。村山優勢で進んでいたが、最後に秒読みに追われてミスをして優勝を逸した。しかし、局後のインタビューでは、実に爽やかな笑顔でおどけて見せていた。 1998年3月の最後の対局を5戦全勝で終え、その春に、ガンの再発・転移が見つかり、「一年間休戦し療養に専念」する旨を公式発表。ふたたび対局の場に姿を現すことはなかった。 6月15日、29歳の誕生日に肝臓への癌の転移を知らされ、絶望的な状況となる。もう切除して治る段階ではなかった。そして3日後、村山の打倒目標だった谷川が名人位を失う。 余命幾ばくも無い村山聖は、好きな本を読み、好きな物を食べ、好きなように行動した。しかし、7月26日を境に 動けなくなり、病室に閉じ込もる。8月8日、故郷・広島の病院にて逝去、享年29。 薄れゆく意識の中で棋譜をそらんじ、「……2七銀」が最期の言葉であったと伝えられる。A級在籍のまま逝去したのは大山康晴、山田道美、村山の3人だけです。 故人の遺志により家族葬で行われ、葬儀終了後その死が将棋界に伝えられ大きな衝撃を与えた。日本将棋連盟はその功績を讃えて、翌日の8月9日付けで九段を追贈。また、日本将棋連盟の「将棋世界」誌は98年10月号を「特別追悼号 さようなら、村山聖九段」と題して発行し、無冠の棋士の死を悼んだ。 ※ 聖の棺には、羽生との棋譜が納められた。 棋界の品位? 1998年4月は、第16回全日本プロトーナメント・羽生4冠王vs森内俊之8段戦と、第56期名人戦・谷川名人vs佐藤康光8段戦の開幕と、さらには中原誠永世名人と林葉直子との不倫騒動で、棋界は大揺れだった。そんな中、ひそやかに村山聖はフェイド・アウトしていったのだ。同じ棋界にありながら、村山聖は将棋に命を燃やし尽くし、かたや中原誠は不倫にうつつをぬかしていた。そして、彼は後に日本将棋連盟会長に就任するのだ。大方の将棋ファンは、義憤を禁じえなかった。 ※ 対戦成績:対羽生6勝7敗(他に不戦敗1)、対谷川4勝13敗(他に不戦敗1)。 ※ 2003年9月17日、村山聖を発掘したアマ棋士・本多冨治氏が逝去。 物故棋士(1955年以降)http://www.shogi.or.jp/syoukai/bukko.html http://www.shogi.or.jp/syoukai/bukko/murayama-satosi.html |

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