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平成20年7月6日(日)ウィンブルドン:姉のプライド、気迫のビーナス。 この日の姉は強かった。「わたしの仕事は大きな姉を演じること」とビーナス。大好きなウィンブルドンの芝の上で、笑顔が弾けた。第1セット、いきなりサービスブレークされる立ち上がり。第2セットも先にブレークを許す。しかし、闘争心をボールにぶつけた。強打の応酬に一歩も引かなかった。最後は妹セリーナのリターンが力負けするように外れた。 四大大会決勝での姉妹対決は5年ぶり。過去6度の対戦は1勝5敗と負けていた。第2セットの第1ゲームには129マイル(約208キロ)の最速サーブをマークした。「妹も勝者に値した」。2人で分かち合う「勝利」でもあった。前回覇者で2年連続5度目の優勝、自他共に認める芝コートの巧者ながら、前評判は決して高くなかった。それほど、妹セリーナの調子が良かった。ビーナスは「5度も勝てたなんて信じられない。妹を倒すのは大変だったわ」と表情を緩めた。 7月6日は、第1回オールスターゲーム開催(シカゴ)の日です。 第1回オールスターゲームは、1933年(昭和8年)7月6日、ホワイトソックスの本拠地コミスキー・パーク(シカゴ、1991年1月解体)で開催されました。この年にシカゴで万国博覧会が開かれることになり、記念行事となる大きなスポーツイベントが求められており、地元紙『シカゴ・トリビューン』のアーチ・ウォード記者の発案、尽力により実現した。 夢のイベント実現の裏には逸話が残っている。当時、ニューヨーク・ヤンキース(ア・リーグ)のスーパースターはベーブ・ルース。同じニューヨークが本拠地のジャイアンツ(現サンフランシスコ・ジャイアンツ)の左腕エースがカール・ハッベル投手。しかし、ヤンキースとジャイアンツはリーグが違うため、共にワールドシリーズに出場しない限りは対決は見られなかった。今日のようなインターリーグがなかった時代。ファンの誰もが望んだ「夢の対決を見てみたい」という願いは、一少年ファンの投書がきっかけになったと言われる。その投書には、「ベーブ・ルースとカール・ハッベルの対決が見たい」と書かれていた。ウォード記者は大いに共鳴し、球界関係者達に働きかけ、両リーグのスター達が一堂に会する「夢のゲーム」を実現させたと言う。 当初、この企画にオーナーたちは大反対。大事な看板選手の怪我の心配、さらに収益はチャリティーに回されるとあって利益になることはなにもない。選手たちも、乗り気でなく、1回だけの真夏の夢で終わるはずだった。 ところが、この歴史的な試合は5万人近い観客を集めた。ナ・リーグのジョン・マグロー監督、ア・リーグのコニー・マック監督が共に、「このイベントが毎年行われることを望む」と語り、さらに世論の高まりもあって、オーナーたちも渋々譲歩することになった。 1試合しか行われないメジャーのオールスターに権威があるのは、なによりも出場することに大きな名誉と価値があるからだ。日本では少なくとも2試合、五輪イヤーには3試合になる。「疲れた、休みたい」などと日本では選手が不満を漏らし出場することに消極的な傾向があるが、この試合数も影響しているだろう。 長い歴史を誇るオールスターゲームで、名場面として語り継がれているのが第2回大会のカール・ハッベル投手の快投。一回から二回にかけて、ベーブ・ルース、ルー・ゲーリック、ジミー・フォックス、アル・シモンズ、ジョー・クローニンを5者連続三振に打ち取った。のちに、この全員が野球殿堂入りすることになるのだ。まさに本物のオールスターゲームだった。かくて、7月の第2火曜日は、『ミッド・サマー・クラシック』と呼ばれ、世界中の野球ファンを楽しませている。 ※ 因みに、第1回〜3回まで、アメリカン・リーグが勝利しています。今年は第79回で、7月15日(第3火曜日)、ヤンキー・スタジアムで開催されます。 ◇ 養老七年(723年)七月六日、太安万侶、卒す(しゅっす) 昭和54年(1979年)、奈良市田原町此瀬の茶畑から偶然発見された銅板。 それは、「古事記」の撰者として知られる太安万侶の墓誌であった。 墓誌には、次のように記されていた。 「左京四条四坊従四位下勲五等太朝臣安万侶、癸亥の年七月六日を以て卒す。養老七年十二月十五日乙巳」 当時の墓誌がいずれもそうであるように、簡潔に住所・官位・姓名や亡くなった年月日などを記すのみ。続日本紀では七月七日の記事として、太安麻呂が卒したことを記すが一日違うのは報告された日などと間違えたのであろうか。文字も「古事記」序と墓誌は共通して太安万侶としており、恐らく自分ではそう表記していたのであろう。 太氏はもともと多氏を称しており、安万侶の父は壬申の乱の功臣である多品治(おおのほんじ)とされる。安万侶の代から太氏を称するが、奈良時代末には再び多氏に表記を戻している。大和国十市郡飫富(おお)郷(奈良県磯城郡田原本町多)がその本拠であり、その地にある多坐弥志里都比古(おおにいますみしりつひこ)神社はその氏神である。 安万侶は和銅四年(711年)九月、元明天皇の命を受けて「古事記」の撰進を行い、翌五年正月には完成、奏上した。墓誌に「勲五等」とある以上、文官としてだけではなく武官としても功績を挙げたと推定される。亡くなったときは民部卿であった。 ※【卒す】(しゅっす):死ぬ。特に、皇親および四位・五位の人の死に用いる。 |

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2008/7/6(日) 午後 2:12 [ chiwachan ]