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平成20年8月1日(金)本日:福田内閣初の改造、居抜き内閣から大幅改造へ。 ガソリン価格も大幅改定へ、大阪では1リットル196円も出現 原油価格の高騰で石油元売り各社が8月の卸値を5円超引き上げたことを受けて、1日朝から値上げに踏み切るガソリンスタンドが相次いだ。大阪市ではレギュラーガソリンの価格を1リットル=190円台に引き上げるスタンドが出てきた。東京都内でも180円台後半で販売するスタンドがあり、夏の行楽シーズンを迎えた家計を直撃する。 8月1日は、中国人民解放軍建軍節です。 中国人民解放軍建軍節:1927年の南昌起義を記念する日。 解放軍関係者は休日。1933年の制定当時は中国工農紅軍紀念日と称した。 ◇ 南昌起義(なんしょうきぎ、or 南昌蜂起) 1927年8月1日、中国共産党が江西省南昌で起こした武装蜂起。 4月12日、蒋介石の指示により、上海で中国共産党を弾圧する事件が起きる。これを「上海クーデター」と言うが、中国国民党は「清党」と称し、中国共産党は「四・一二反革命政変」「四・一二惨案」と称する。この上海クーデターの後、1927年5月、蒋介石は中国国民党からの共産党分離を決定し、汪精衛が主にその実行部隊であった。 これに対して、共産党は独自の軍事力を持たず、いずれかの地で国民党内部の武力を一部接収する形で武装化を進めようとしていた。この頃、国民党内部にはかなり多くの共産党人士が存在しており、要職についているものも多かった(1924年1月20日、第一次国共合作)。 このような状況下、当時北伐軍の駐留する都市の中で、南昌が比較的手薄な配備だった。また、南昌の公安局長が朱徳であり、好条件が揃っていた。 共産党は周恩来を首班とする前敵委員会を組織し、7月30日に決起することと決定したものの、前日に武漢から張国涛が到着し、時期尚早であり、決起後の見通しも曖昧な状態であると主張して強く反対を唱えた。朱徳こそ公安局長の職務にあり、警察権力を握っていたものの、共産党の軍事力は武漢より移動してきた張国涛、葉挺、賀龍などの北伐軍から寝返った部隊を期待せざるを得なかったため、張国涛の反対は、決起そのものの成否に大きく関わる大問題であった。 また、蒋介石の南京国民政府は距離は離れているものの動員可能兵力は大きく、長期戦となれば敗北は必至であった。さらに、武漢汪精衛政権の管理する北伐軍からより多くの造反者を獲得しうるものと考えていたものの、実際には張国涛は一万程度の部隊を引き抜き、寝返らせることしかできなかった。張国涛は自らの失点を自覚しつつ、彼我の戦力差を冷静に把握していた。 周恩来はまず武漢で期待された役割を全うし切れなかった張国涛を、革命委員会の中枢に招き入れることで懐柔し、また決起後も共産軍の名称は使用せず、国民党軍第二軍の認識番号を継続使用することを決めた。さらに、この決起は聯ソ(ソ連に協力する)・聯共(共産党に協力する)・扶助工農(労働者と農民を助ける)を目的とし、自ら共産党軍を名乗ることはしないという妥協案を示し、張国涛ら反対派を押し切った上で再度8月1日を決起日と定めた。 決起部隊は総勢2万余となり、8月1日に総決起、ほぼ午前中に一旦南昌を掌握。しかし、張国涛の指摘を待つまでも無く、国民党軍第二軍(実質的な紅軍)のみでは南昌の長期維持は不可能であり、周辺の農村や町の共産化・根拠地化を早急に進めない限り、先行きは絶望的な状況だった。 早くも8月3日には、国民党軍の包囲攻撃を受けて南昌を放棄し、広東方面に転進する。南方で勢力を蓄えて後に北伐すると言う当面の方針は出されたものの、実質的な敗退であり、明確な目的地を示すことが出来ない指導層は敗走を繰り返す。 ◇ 台湾政府 1937年、日中戦争が開始され、同年9月22日、第二次国共合作が成立。同年末に南京が陥落すると、国民政府は重慶に移転し、日本軍による攻撃をしのいだ。 1945年、日本が戦争に敗れ中国本土から撤退すると、同年11月から国共内戦が再開されるが、ソ連が支援する中国共産党軍に対する劣勢を挽回できず、1949年には、国民政府(中国国民党)は、内戦に敗れて台湾島に逃れた。このため中国国民党の実質統治範囲は、建国以来の福建省(馬祖・金門)と、1945年の日本敗戦後に連合国として統治していた台湾島一帯だけとなった。 |

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